かつて映画評論家・淀川長治(以下、淀長さん)は「映画から様々なことを学んだ」「映画が教えてくれた」とか言っていたような気がする。読書も同じで、能動・受動の違いが多少あるが、映画を通して知ること、学ぶことは多い。
淀長さんは「エログロ映画は別として、どんな映画も作者の意図があり、どこかしらに見るべきところ、価値がある」と言っていた。
日曜洋画劇場の解説では、あまり気の進まない映画でも、解説を聞くとみてしまうというケースもあった。
先日15日、埼玉会館・小ホールで映画「1 7歳のウィーン」という映画を見た。このタイトルだけでは、見に行かなかったかもしれない。
ネットで、その日の上映の2:30分の回の終了後に「アフターレクチャー」という映画の時代背景を説明するトークがあるというので参加したのだった。トーク(セミナー)講師は、学習院大学文学部教授の小林和貴子さん(写真)。
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映画の設定が1937年のウィーンで、精神分析学の創始者と言われる老境に達したフロイトと10代後半の青年との交流、対峙という面白さがある。
フロイトは、「ウィーン世紀末文化」(ここからモダン文化が始まる)を支えたユダヤ人の一人で、ユダヤ人が移動の自由が認められたことから、大挙してウィーンに移住することになり、ユダヤ人があらゆる分野で大活躍。
建築(アドルフ・ロース)、絵画(グスタフ・クリムト)、音楽(ヨハン・シュトラウス2世)、文学(シュニッツラー、ツヴァイク)、心理学(フロイト、アルフレッド・アドラー)、哲学・思想(ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン)といった分野でユダヤ人が活躍している。
ヨハン・シュトラウス2世は「美しく青きドナウ」「ウィーンの森の物語」「春の声」などで有名。
A. シュニッツラー「夢物語」を原作とした映画がトム・クルーズ、ニコール・キッドマン主演の「アイズ・ワイド・シャット」であることも初めて知った。
ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの名言には「語れないことには沈黙しかない」(論理哲学論考)などがある。
ユダヤ人が、ドイツ語圏のウィーンに必死に同化しようとして、社会で成功を収めていく一方で、そうしたユダヤ人が次第に嫌われていくことになる。フロイトの家などは豪華な屋敷だが、貧しい層から見たら妬みも生まれる。社会格差がやがて人種差別にすり替えられていくのだった。
そうした中で、1937年9月、ドイツ・ナチがオーストリアで活動を再開。ヒトラーはウィーンで歓迎され、オーストリアはドイツに併合される(=合邦化される)(1945年まで)。
合邦時点(1938年3月)で20万人近くいたユダヤ人は、亡命などにより、1939年9月15日には72,000人ほどに激減した。フロイトは1938年6月にロンドンに亡命した。
1939年9月にドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦がはじまると亡命は不可能になる。
1941年10月~1942年半ばに、ユダヤ人が移送され、殺害されたことにより、ユダヤ人は51,000人から8,000人ほどになった。フロイトの妹4人も殺されている。
終戦時、ウィーンに残っていたユダヤ人は5,500人程度だった。
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蛇足になるが映画「サウンド・オブ・ミュージック」に登場するトラップ大佐もファシストだったというのはよく知られている。
オーストリアの戦前を知る年配者などはトラップ大佐を美化するように描かれている「サウンド・オブ・ミュージック」をよく思わないというのもうなづける。実際にオーストリアでは、この映画はしばらく上映禁止だったようだ。
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映画「17歳のウィーン」(副題:フロイト教授 人生のレッスン)は、味わいのある映画だった。
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