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訃報:映画界のドン、岡田茂、死去(東映・元社長・名誉会長)。


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岡田茂さん死去:戦後映画界のドン 斬新な企画、経営近代化


数々のヒット作を製作する一方、映画界の経営の近代化で日本映画界のドンと呼ばれた東映名誉会長の岡田茂が、9日死去した。87歳だった。
 
仁義なき戦い」シリーズが圧倒的な迫力。ヤクザ抗争をドキュメンタリー風に描き菅原文太などのスターを生んだ。音楽も最高。
 
東京帝大を卒業し、映画製作を開始したばかりの東横映画に入社。51年の東映発足後も、京都、東京の製作所の第一線で活躍。50年代には大スターを起用した時代劇のヒットで、新興の東映を躍進させた。
 
1960年代に入って映画が斜陽化すると63年「人生劇場・飛車角」を製作。以後、派手なアクションが売り物の任侠路線を確立。網走番外地などで、高倉健鶴田浩二らを大スターに押し上げた。
 

任侠路線が下火になると、暴力団の抗争をドキュメンタリーのような手法で描いた仁義なき戦い」シリーズ、同じく菅原文太を起用した喜劇「トラック野郎」シリーズもヒット。「映画は商品である」が持論で、時にキワモノ風の作品も、批判を尻目に後押しした。
 
製作者として、若手監督を思い切って起用し、斬新な企画を次々と手がける一方、経営者としては製作費や人件費の抑制など、映画製作を合理化。テレビ番組の制作や太秦映画村の設立などの事業にも進出した。93年、東映会長に就任し、一線から退いた。
 
反社会的な題材や過激な描き方がしばしば物議を醸し、歯に衣(きぬ)着せぬ発言で批判も受けた。しかし時代感覚は鋭く、大胆で豪快な人柄を慕う人も多く、日本映画史に大きな足跡を残したことは間違いない(以上、記事より)。
 
主な製作:
1950 日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声
  51 わが一高時代の犯罪
  62 ギャング対Gメン
  63 五番町夕霧楼
     暗黒街最大の決闘
  64 博徒
  67 大奥(秘)物語
     銭形平次
     あゝ同期の桜
  73 仁義なき戦い
 
追加:岡田名誉会長は、映画は「泣く 笑う にぎる(手に汗握る)」があればヒットするが持論だった。映画のタイトルにもこだわった。相反する二つの言葉を使う意外性。たとえば「緋牡丹博徒」(緋牡丹+博徒の組み合わせ)。現代風にいえば、「ホームレス中学生」など。(秘)をタイトルに初めて使った。「大奥(秘)物語」。アメリカのポルノという言葉もはじめて導入。
 
仁義なき戦い」では、監督の深作欣二が、山守組・組長役は、三国連太郎がいいのではと進言したところ「金子信雄がいい。金子が使えないなら、監督を降りろ」とまで言ったとのこと。それは、金子の広島弁がうまいこと、(ずるがしこい)おもしろ差があることからだった。結果、映画は、山守組の組長を演じた金子の圧倒的な面白いキャラクターが奏功して大ヒットした。これには、深作監督も、のちに「あれには、まいった(よく見抜いている)」と述懐したという。岡田語録は、たくさん残っているようだ。
 
10日の告別式には、菅原文太をはじめ、北大路欣也津川雅彦渡辺謙役所広司吉永小百合富司純子松坂慶子小林稔持、仲村トオル里見浩太朗、映画会社社長など映画関係者、約2,400人が参列した。高倉健は、弔電をおくった。
 
ご冥福を祈ります。