ネギや天ぷら、ほうれん草をトッピング
小さい頃は実家で母親が、煮ぼうとうをほとんど毎日のように作って、食べていた。
手打ちうどんを太く切ったもので、ネギ、じゃがいも、ほうれん草などの野菜や、好みに応じて、豚肉の細切れなどを入れていた。きょうは久しぶりに、”おふくろの味”を味わった(笑)。まいうー。
血洗島は、渋沢栄一の存命の頃は八基(やつもと)村血洗島で、その後、豊里村血洗島となり、約30年前に深谷市に吸収され、深谷市血洗島となった。fpdが生まれた頃に八基村から豊里村に変わった。同じ深谷市といっても、まさにfpdが生まれたのは豊里村(旧八基村)なので、渋沢栄一の実家から1キロも離れていない。
地元の名物うどんの一種である「煮ぼうとう」を食べたからかどうか分からないが、当時としては天寿を全うして、91歳まで生き、昭和6年(1931年)に亡くなった。
今では考えられないくらいの長寿で、年号では「天保」「安政」「文久」「元治」「慶応」「明治」「大正」「昭和」と生きたことになる。ひぇ~!
渋沢栄一は、持ち前の正義感から若いころは尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に加わったものの、その後は一橋家と幕府に仕える。慶応3年(1867)には第15代将軍徳川慶喜の名代徳川昭武に随行して渡仏し、パリ万博を視察するなどヨーロッパの進んだ思想・文化・社会などに大きな影響を受けた。
渋沢栄一は、持ち前の正義感から若いころは尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に加わったものの、その後は一橋家と幕府に仕える。慶応3年(1867)には第15代将軍徳川慶喜の名代徳川昭武に随行して渡仏し、パリ万博を視察するなどヨーロッパの進んだ思想・文化・社会などに大きな影響を受けた。
渋沢栄一の略式年表 | ||||
西暦 | 年号 | 歳 | 業 績 | 主な出来事 |
1840年 | 天保11年 | 0 | 2月13日、武蔵の国、榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市大字血洗島)に生まれる。 | アヘン戦争 |
1859年 | 安政6年 | 19 | 尾高惇忠(雅号=藍香)の妹、千代と結婚。 | 安政の大獄 |
1863年 | 文久3年 | 23 | 高崎城乗っ取り計画をするが、中止。 | 薩英戦争 |
1864年 | 元治元年 | 24 | 一橋家の用人、平岡円四郎のすすめで、一橋家に仕官する。 | 池田屋事件 |
1867年 | 慶応3年 | 27 | 15代将軍慶喜の弟、昭武に従いパリ万博に随行。 | 大政奉還 |
1869年 | 明治2年 | 29 | 明治新政府に仕官、租税正となる。日本初の 商法会所(今の株式会社)を設立。 |
戊辰戦争 終結 スエズ運河 開通 |
1973年 | 明治6年 | 33 | 大蔵省辞任、第一国立銀行総監役となる。 | 地租改正 |
1900年 | 明治33年 | 60 | 男爵を授けられる。(後に子爵を授けられる。) | 紙幣が日本銀行 券に統一 |
1909年 | 明治42年 | 69 | これまで関係した諸会社、その他諸団体の 役職を辞任。生涯を通じて、約500社の営利企業の創立に関与、また、600余りの社会福祉事業にも貢献。 |
伊藤博文暗殺 |
1916年 | 大正5年 | 76 | 実業界を引退。 | 夏目漱石死去 |
1931 年 |
昭和6年 | 91 | 11月11日、永眠。 | 満州事変 |
また、「彩の国21世紀郷土かるた」の「え」の項目は「えいいち(栄一)も食べたネギ入りにぼうとう」となっている。彩は埼玉の埼にかけた言葉で、彩の国は埼玉県の愛称。深谷ねぎが栄一の故郷の深谷の特産品であることと「煮ぼうとう」が埼玉県北部の郷土料理であることにちなんでいる。
生家(上)と渋沢栄一記念館
深谷市大字血洗島には、「渋沢栄一記念館」がある。ここには、渋沢栄一にちなんだ写真や栄一関連の物品が展示されている。パリ万博訪問の写真もある。渋沢栄一記念館は、高崎線・JR深谷駅から北に約5キロ。タクシーで20分。荘厳な深谷駅(写真)の外観を見るだけでも、初めての人は卒倒するかもしれない(笑)。
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