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「名作に進路を取れ!」…映画とその他諸々のブログです。

<span itemprop="headline">「KK(清原・桑田)コンビ」栄光と挫折・・・。</span>


                      PL学園時代の清原と桑田の黄金コンビ

珍しく野球の話題。

清原がPL学園で、桑田とともに大活躍していたころは、同じ時期に海外転勤と重なって、
直接は見ていなかったが、西武に入団以来、新聞では、成績をずっとみていたかぎり、
すごいルーキーがいるものだと思っていた。

”無冠の帝王”というのが、清原の呼び方だったように思う。

三割打者、ホームランもコンスタントに30本以上・・という強打者。
ところが、首位打者などのタイトルには無縁だった。

昭和後期・平成の打者では、ぬきんでていた。

ところが・・・。

スポーツ紙での清原の取り上げられ方は、練習はサボる、マイペースで、
わがまま・・という書かれ方がほとんどだった。

言葉使いも、関西出身であり清原の発言は常に「番長言葉」で、”悪役”の
イメージが形成されていった。

いつだったか清原が「あんなしゃべり方はしていない」とか言っているのを
聞いたことがある。

「あんな話し方はしません」→マスコミの”清原言葉”に置き換わると
「オレ、あんなしゃべりかたせえへんで!」(番長一喝)といった具合。

一体、マスコミって・・・笑。

怪我で戦列を離脱するとこき下ろされたり、さまざまなことがあったが、
ここ数年の清原は、その面構えといい、物腰といい、男らしくなかなか立派。

若い選手のお手本といえなくもない。

苦境にあっても、歯を食いしばって、這い上がってくる。




その背景には、お互いにライバルで
もあり、戦友でもある、25年来の「盟友」
桑田がいたことが大きかったようだ。

ドラフトで、巨人が指名したのが、
清原でなく「桑田」だった。

そのときの、清原の思いは、いか
ばかりだったか。その後、別々の
球団(清原は西武)でのほぼ11年間は
桑田とは、口をきかなかったという。

そして、やがて訪れる、巨人での「KKコンビ」。

今年3月に、先に引退した桑田。

今なお、最後まで打席で燃え尽きたいとする清原。

練習で、桑田の球を打つ清原。

”男の友情・25年”。なかなか、こうした深い絆というのは
無いもの。

清原が、代打で、清原らしい「一発」を打って、ファンを沸かせ、
引退の花道にしてほしいものだ。

一番印象に残ったのは、オリックスの当時の仰木監督の言葉。

「(悩み苦しんでいる清原に対して)キヨ、お前の花道を用意しておくから、
うちへ来いよ」という言葉。相当熱心な誘いがあったという。

仰木監督を師と仰ぐ清原が、「オリックス行き」を決めた背景だ。

しかし、運命の皮肉。仰木監督は、清原のオリックス入団を前に
他界してしまった。

それでも、仰木監督の言葉を受けて、オリックスの入団会見に臨む清原の
姿があった。

一時期、清原は、年俸ばかりがX億円と高く、試合に出る回数も少なく
「なんで?」と思ったが、いまでは、やはり球界の至宝という気がしてきた。

パリーグ人気の立役者の一人であった清原は、成績以上のものが
あるのでは・・と最近感じている。

一方の桑田も、「憎まれっ子」では、相当なものだった。
ふてぶてしさ。まあ、しかし、よくがんばったと思う。

「40歳KKコンビ」が、いつか野球チームの指導者として、戦う時が
くるのか・・・楽しみにしている。