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「名作に進路を取れ!」…映画とその他諸々のブログです。

<span itemprop="headline">今朝、台湾にまた出かけてきます。5月31日という日は、忘れえぬ日です。</span>


                    ↑キング・サーモンはアンカレッジ空港の
                     かつての土産の名物でした

 今朝(5月31日)5時30分に家を出て、成田空港へは
 7時40分までに着かないと…という状況です。
 2時間みれば大丈夫でしょう。
(そうそう、31日は、台湾は祝日なので、移動だけでよいのは、少し楽です。)
 明日からは、超ハードスケジュールが待っていますが、考えないことにします。
 
 5月31日といえば、私にとっては、非常ーーに思い出深い日です。

 日本を離れ、初めて海外へ行ったのが、「5月31日」でした。余程縁がある日ですね。

 成田空港が開港する前ですから、もうかれこれ○○年も前のことです。
 初めての訪問地は、アメリカでした。fpdも若かったですよ。(今も、気持ちは若いですが=
 笑)

 その当時の様子を少し記します。

 197○年5月31日。
 すべてが羽田空港出発の時代でした。見送りの友達の中には、
 大げさでなく、旗を持っている人もいました。
 今から思うと、戦争に行くわけではないのに、と苦笑してしまいますが・・・。
 1ドル=360円の時代です。これは、ブラック・マンデーの
 1987年9月まで続いたと思います。

 当時、ニューヨークへの直行便はなく、アンカレッジ経由です。
 アンカレッジまで、8時間、そこから目的地ニューヨークまで
 さらに8時間ほどかかったと思います。アンカレッジでは、
 給油のため1時間の時間がとられ、乗客は、みやげ物を
 見て歩いたり、珍しい日本の「うどん、そば」の店があり、
 当時1杯1,000円という高さにもかかわらず、早くも
 日本の味を食したく、天ぷらうどんを食べました。

 カナダ(アンカレッジ)であり、旅行者は、アメリカに行く途中で、
 名物の「キング・サーモン」を注文して、帰りの飛行機便で
 それを受け取って帰国するという、今では考えられない
 システムでした。

 入社してまだ1,2年の私はとりあえず半年間の勤務を命じられましたので、
 (実際には8ヶ月滞在することになります)みやげを買う必要もなく、
 座席に戻りました。

 5月31日に出発しましたが、日付変更線を超えると、また
 同じ日になり、現地ニューヨークのケネディー空港に31日の夕方着きました。
 ケネディー空港に降りるころは、 座席の窓から、だんだんアメリカの景色が目に
 飛び込んできます。
 「いよいよ、アメリカだな」という不安と期待が交錯していました。
 さかのぼる2,3月ごろ、米国駐在の経験がある先輩に相談もし、
 とにかく「いい経験だから、がんばってみろ」と激励されたことを、
 思い出しながら・・・

 空港には、先輩同僚社員の家族たちの出迎えがあり、アパートに向かいました。
 アメリカのアパートというのは、日本のマンションで、受付にはガードマンがおり、
 マンションとホテルの中間のような印象でした。スペースが、全然違う。日本の
 6畳一間の、あのアパートは、なんだったんだ(「ウサギ小屋?」)と。

 空港から、車で30分ほど走りましたが、あたりの風景に驚きました。
 どこまでも地平線が続く印象で、「アメリカは広い」というのが率直な実感でした。

 仕事のほうは、先輩社員に教えられながらも、8ヶ月滞在することになる、
 悪戦苦闘の(?)アメリカの生活がいよいよスタートしたのがこの日だったのでした。
 (「仁義’泣き’戦い」の火蓋がきっておとされたのでした(って、おおげさなものかいな)。

 今では数百件ではきかない、日本レストランも当時は、ニューヨークでは
「サッポロラーメン」を含めて、日本食堂は3軒でしたね。 
 昔日の感というのはこういうのでしょうね。
 (2回目の駐在の時は、10年後くらいですが、大きく状況が様変わりしていました。
 日本が、アメリカを追い越す勢いの「ジャパン・アズ・ナンバー1」の時代で、
 アメリカのランドマークのビルや、映画会社を買い取って、非難もされた時代で、
 その後は、日本もバブルへとまっしぐら・・・お気の毒(笑)。 )

 アメリカ建国のベルがあるという、フィラデルフィアに一人で行ったとき
 日本人は、珍しいのか、小さい子供のグループから、「日本人だ」といった 
 感じで指をさされましたよ。「悪いことをして指をさされたのではない」ので、
 (寛容なfpdは、表面はにこにこ笑っていましたが、内心は、'黄色'だと思って
 ばかにすんなよ!と内心は、石ころでも投げてみろ、大変なことになるぞ、
 と、あらゆる情勢にも対応できる構えはしていました=うそです)いろんな体験を
 させていただきました。

 台湾への出発の日がたまたま5月31日だったもので、’だらだら文’になりました(笑)。