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「名作に進路を取れ!」…映画とその他諸々のブログです。

映画「ある兵士の賭け」(1970)三船敏郎、石原裕次郎、浅丘ルリ子、新珠三千代共演。

 

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ある兵士の賭け」(原題:The Walking Major, 1970)を見た。石原裕次郎石原プロモーションが「黒部の太陽」「栄光への5000キロ」と興行的に成功を収めたことから、海外での上映に向けた第一弾として制作された日本映画。結果は、残念ながら興業的にコケてしまい、損失は7億円とも言われた。ゴールデン・グローブ(GG)賞(外国映画)にノミネートされた。

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1970年6月6日の公開からちょうど50年。加入している「HULU」のラインアップにあったので見た。出演は三船敏郎(50歳、当時)、石原裕次郎(35歳)、新珠三千代(あらたま・みちよ、40歳)などそうそうたる俳優が脇役で出演。主演は”ある兵士”を演じたデール・ロバートソンとあのシナトラの息子・フランク・シナトラ・ジュニア裕次郎新珠三千代浅丘ルリ子が、特訓したとかで流暢に英語を話している。

全く予備知識なしで見たが「ある兵士」とは実在した米兵士アレン大尉のこと。第二次世界大戦朝鮮戦争に従軍した兵士で、ベトナム戦争で亡くなった人物。

「賭け」とは、「(アレン大尉が所属する)キャンプ地・座間(神奈川県)から九州・別府までの1,300キロを2週間で歩いてみせるが、成功するかどうか(全米軍将兵に)賭けてほしい」から来ている。成功すれば賭け金は別府の孤児院に寄付するというものだった。

なぜアレン大尉が別府の孤児院の支援に乗りだしたのか、一部で言われていたような「歩くサンタクロース」だったのか、この大尉の過去のあることを知っていたフリーの報道カメラマンの北林宏(石原裕次郎)は、真相を探ることになるといったストーリー。果たして真相にたどり着けるのか・・・。

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1960年(昭和35年)某日、「星条旗紙」に奇妙な広告が掲載された。「米軍将兵に告ぐ。米兵士アレン大尉(デール・ロバートソン)はキャンプ地・座間から別府までの1,300キロを2週間で歩いてみせる。いくらでもよいからこれに賭けて欲しい。もし成功すれば賭け金は別府の孤児院白菊寮へ寄付する。失敗すれば賭け金は返金する」というものだった。

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フリーの報道カメラマン北林宏(石原裕次郎)はその広告を見て、激しい怒りを覚えた。1952年(昭和27年)、朝鮮戦争の取材に現地に飛んだ北林はその最前戦で北戦ゲリラと誤って子供づれの市民夫妻を射殺したアレン大尉を目撃していたのだ。

一瞬のうちに父母を失った幼児の悲鳴にも似た泣き声は、8年を経た現在も北林の耳の底に残っていた。北林はアレンに、無慈悲に孤児を作った人間が、孤児のためと称して慈善事業をやるのは大変な矛盾だ、と歩くことを中止するよう迫ったが、アレンはやめようとはしなかった。

好奇心からこの強行軍に参加したパーマー伍長(フランク・シナトラ・ジュニア)は何度も脱落しそうになるが、そのたびにアレンの激励をうけ、立ち直った。しかし、ついに動けなくなり、たまたま車で通りかかった滝口節子(浅丘ルリ子)に助けられ、車でアレン大尉に追いついた。アレン大尉のアドバイスもあり、パーマーは病院で治療することになった。滝口は、アレン大尉の九州までの歩きのニュースは知っていたので、パーマー伍長の看病に協力した。

一方、北林は別府へ先まわりし、白菊寮を訪ねた。園長の山田女史(新珠三千代)は、アレンとの出合いを北林に語った。

山田女史によると、朝鮮戦争が終り、別府に勤務したアレンはたびたび白菊寮を訪れた。そんなある日、アレンは子供たちに何か素晴らしいプレゼントをしたいと申し出た。一人の子供から「雨の洩らない鉄筋コンクリートの家が欲しい」と難題がぶつけられた。アレンは苦悩に満ちた表情で背を向けて去っていったというのだ。

数多くのアクシデントを克服し、二人の兵士はついに壮挙を成しとげた。1961年(昭和36年)春、アレンの賭けの成功によって白菊寮の改築工事が着手された。

しかし、その後の資金が続かず、まもなく工事は中断。その年のクリスマスにアレンは歩いた。沿道からの寄付金はわずか3万円。米軍からは1,000ドル(当時で36万円)。その翌年のクリスマスにも実行。しかし募金は思うようには集まらなかった。しかし、大分県別府にある新聞社の社長・衣笠(三船敏郎)の肝いりのキャンペーンが功を奏し、工事は完成した。北林はベトナムの最前線にいるアレンにそれを告げた。

それから数日後、アレンはトラックを運転中、地雷にふれて戦死した。アレンを迎えるため大分空港に集まった子供たちに北林は言った。「君たちのサンタクロースはもう帰って来ません」子供たちの間から嗚咽がもれた。北林は歩くことにした。かつてアレンが歩いたその道を。

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朝鮮戦争に参加し、戦争後、座間にいるある米軍の兵士が部下と二人で座間から別府まで2週間で歩いて行く事が出来るかどうかと言う話で実話という。

米軍の兵士が座間から別府まで行き、児童施設に寄付をするという賭けのために歩くのだが、結局この兵士がなぜ、児童養護施設・白菊園を援助するのか、理由がはっきりしない。アレンは結婚していて、奥さんと子供二人いて、職業柄クリスマス休暇くらいしか会えないことも多い。園長の新珠三千代に好意を抱いたかといえば、そうでもない。大分の新聞社の三船敏郎が言うように「2週間で1300キロを歩くのは大変だ、俺は戦争で40キロ行軍をしたが大変で疲労困憊した」という。

アレン大尉の歩く姿は、本人が軍人の経験があるといい、体幹もしっかりして、軍人そのものの歩き方。正義感があり、人柄、優しさを備えている。孤児院で、タケシという子は、ほかの子供とは打ち解けず、一人だけ仲間に加わらずにいたが、アレンは、やがて、キャッチボールをすることなどで打ち解けていく。アレンの愛用していたハーモニカをタケシに与えたが、飛行機が到着して、アレンが「帰らざる人」となったことを知った時も、手にハーモニカを掴んでいた。アレンからハーモニカで聞かされたアメリカの歌を合唱してまちままえていた子供たちの前にアレンは現れることがなかったのが(実話とは言え)悲痛で残酷。

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兵士が座間を出発して、浜松、名古屋、京都、姫路、広島、関門海峡と歩いていくが、途中で出会う日本人が皆流暢に英語を話すのだ…笑。自転車で通学する女子高生が「Good luck!」というのを始め、車で通りがかった女性(浅丘ルリ子)が、流暢に英語を話したり、孤児院の園長(新珠三千代)が、べらべら。

 

映画製作に協賛した企業だからか、特定の会社のアピールらしきシーンも多々見られた。サントリーのビール工場のシーンでは、従業員とパーマー伍長とビールを飲むシーンがある。途中立ち寄るガソリンスタンドの出光。

しかし、なんといっても、PRESS(報道)の腕章をつけて戦地を取材する北林(石原裕次郎)のカメラは「PENTAX」だった。北林は、アレンから”ペンタックス君”と呼ばれるのだ。ペンタックスという名称の由来は、1957年5月発売の一眼レフカメラアサヒペンタックス(通称AP)」の製品名だった。

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1960年代なかば頃、CMで「PENTAX PENTAX PENTAX、望遠だよ… ワイドだよ」というCMがはやったことがある。熊倉一雄の声だった。現代で言えば、報道関係のカメラは、キヤノンニコンということになるだろう。

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