fpdの映画スクラップ貼

「名作に進路を取れ!」…映画とその他諸々のブログです。

訃報:大賀典雄(ソニー元社長・会長)さん、逝く。81歳。

ソニーの元社長・会長だった大賀典雄さんが亡くなった。
81歳。
 
数年前にすでに第一線を退いていたが、動静は気になっていた。来るべき時が来たかという印象を持った。大物経営者の一人がまた亡くなった。
 
バリトン歌手出身という異色の経営者として国際的に知られたが、「SONY」のブランドを世界的に広めただけでなく、音楽CDの普及に努め、CDは当初の数年間は苦戦したが、CDの黄金時代を築いた。
 
楽家カラヤンと親しく、オーストリアザルツブルグ近郊にソニーのCD工場を作ったのは、カラヤンが当時近くに住んでいたからだった。
 
ビデオでは、ベータ陣営の推進役で、ビクター・松下連合のVHSに敗れたが、1980年代後半には、アメリカの映画会社、コロンビア映画を買収するなど、映画産業での貢献も甚大だった。日本が、バブルで、イケイケだったころだ。
 
当時の米国のニュースは、「日本がアメリカの魂(ハリウッド映画の財産)まで買った」と批判も出た。本業のエレクトロにクスの業績が悪化すると、映画会社など買ってお荷物だ、という意見もあったようだ。なんとかしのいだのは、ソニーのゲーム機のヒットがあったからだ。任天堂の牙城に、プレイステーションが食い込んだ時期もあった。
 
ソニーは、創業者の井深大さん、盛田昭夫さんに続き、これを継承した大賀さんというSONYのDNAともいうべき巨星三人が亡くなってしまったことになる。
 
大賀さんと言うと、歌舞伎俳優のようながっしりした体躯で、鼻っ柱が強いことで知られた。映画「陽はまた昇る」でも、大賀さんの役が登場したが、ソニーの宿敵、日本ビクター(松下電器=現パナソニック=グループ)が「VHS」ビデオの開発に奮闘するドラマで、「VHSなんか、ふん!」という態度だった(爆)。この映画の松下幸之助さん(松下電器の創業者)の役は仲代達矢だった。VHS開発に奔走したのは、西田敏行で、屋上から、庭を覗くと、そこには社員による一文字「VHS」があって、感動のシーンだった。
 
いささか、私事になるが、直接・間接3度くらい会う機会があった。
 
最初は1986年だった。ソニーが、ベータマックス(VTR)の工場をスペインに作るというので、その工場設立のセレモニーに招待され、バルセロナに行った。ドイツから参加した。会見の席上、大賀社長は、ソニー製のハンディビデオカメラで、日経など日本人記者団を逆に撮影して、ソニー製品のすぐれたところを、パフォーマンスで示した。
 
当時、VHS対ベータ方式戦争では、日本はおおかたVHSに傾いていて、劣勢だった。ただし、ヨーロッパ、とくにスペインでは、VHSとベータは、SANYOなども参入してややベータ優勢だった。そんな状況で、大賀社長(当時)の先制パンチがあった。
 
「記者のみなさん、いつベータを止めるんですか、という質問だけはしないでくださいよ」だった(爆)。記者たちは、ジョークに笑ったが、後にそれが本物になったので、大賀さんも、本心ではベータの雲行きを心配していたのだろう。
 
2-3カ月して、私は、ニューヨークに転勤。
ある機会に、ピアニストの中村紘子のコンサートに行ったときに、エレベーターで大賀社長と鉢合わせになった時に「どこかでお会いしましたね」と言われた時には、こちらも驚いた。まさか、顔を覚えていたとは。大賀さんと中村紘子は、同じ音楽関係で親しいことを後で知った。
 
このコンサートには、郷ひろみ夫妻(当時は二谷友里恵を伴って)も来ていた。
郷は、当時大賀社長率いるソニー・ミュージック系列だった。fpdの奥さんが当時は郷のファン。「行こう、行こう」とせがまれて、郷に「サインを」と言って、二言三言話した。ったくもぅ!。
 
30代の若手ビジネスマンの異業種勉強会グループに所属していたが、後に出雲市長、国会議員にもなった岩国哲人さんがメリルリンチ副社長の肩書で勉強会で講演した。その時に、20人くらいの参加者の中に郷夫妻もいた。
 
国内では、大賀社長が、次の社長に出井伸之氏を選んだときに、副社長などを飛び越えての大抜擢だったが、後に、出井さんは、コンピューター分野も開拓(プレイステーション)するなど、一躍時の人となった。「俺が出井を見出した」(大賀社長)と自慢していた(爆)。
 
ソニー・ピクチャーズ・エンターテイメントの映画も、アメリカ・ハリウッド映画の一角に定着している。主な映画だけでも、アンジー出演の「ソルト」「ツーリスト」を始め、「グリーン・ホーネット」「ベスト・キッド」などがある。
 
ご冥福を祈ります。