突然の訃報に驚いた。俳優の西田敏行が17日自宅で亡くなった。76歳。11月4日の77歳の誕生日目前だった。
捜査関係者によると、17日東京・世田谷区の自宅で倒れているのが見つかり、その場で死亡が確認された。病死とみられ、警視庁が詳しい状況を調べている。
西田敏行は「釣りバカ日誌」「ドクターX」などの映画・ドラマに多数出演するなど多方面で活躍していた。俳優というだけでなく、歌手、司会者などマルチの才能を発揮した。
1947年(昭22)11月4日、福島県出身。明治大入学と同時に日本演技アカデミー夜間部に入学。1967年、TBS「渥美清の泣いてたまるか」でデビュー。し1968年に青年座俳優養成所に入り1970年卒業し青年座座員に。
1977年にはテレビ朝日「特捜最前線」、1978年には日本テレビ「西遊記」にレギュラー出演。1980年には日本テレビ「池中玄太80キロ」テレビ朝日「サンキュー先生」で主演を務め、翌1981年にNHK大河ドラマ「おんな太閤記」で準主役を務めるなど、次々と各局の連続ドラマに出演した。
1981年には歌手デビューし「もしもピアノが弾けたなら」(池中玄太80キロ主題歌)は大ヒット。NHK紅白歌合戦では司会、歌手、審査員、応援全てで出演経験がある。
1986年(昭和61年)、映画「植村直己物語」の主演を務めた。西田にとっては明大農学部の先輩で、映画公開の2年前の1984年2月にマッキンリーで消息を絶った冒険家・植村直己を演じた。
この作品ではモンブラン(フランス)、エベレスト(ネパール、中国)、マッキンリー、北極など植村の足跡を追う5大陸ロケを敢行した。
話題となったが、7ケ月に及ぶ長期ロケは過酷なもので西田は死を覚悟して臨んだ。「実際に大自然と対峙し、つくづく抗えないことがあるんだと痛感させられた。同時に、大自然の中に身を置いて芝居をするという経験が、僕に言葉にはならない、いろんなものを与えてくれたという意味で、エポックメーキングになった作品だと思います」と、自身にとって大きな転機となった作品だとしている。
2年後の1988年6月公開の映画「敦煌」でも長期の現地ロケに参加した。一時は「極地俳優」の異名をとった。
1988年(昭和63年)から映画「釣りバカ日誌」シリーズに出演した。三國連太郎とのコンビで、最終の第20作(特別編2本を入れると22作)まで約22年に及ぶ長期シリーズとなり、自身の代表作の1つとなった。
1994年(平成6年)、東宝ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」で森繁久彌、上條恒彦に次ぐ3代目テヴィエ役に抜擢され、その後7年にわたり出演。
2009年(平成21年)には里見浩太朗の後を受け、日本俳優連合第5代理事長に就任した。俳優の資質や地位の向上・権利問題などにも取り組んできた。
2010年(平成22年)3月「釣りバカ日誌」シリーズで、22年の長きにわたり国民に笑いと感動を与え続け、日本映画界へ残した数々の功績を讃えられ、三國連太郎と共に第33回日本アカデミー賞会長功労賞を受賞。
印象に残る映画は数多いが「釣りバカ日誌」の浜ちゃんや「ステキな金縛り」の落ち武者のようなコメディから「アウトレイジ ビヨンド」の強面のヤクザまで幅広く演じた。
「ステキな金縛り」 「アウトレンジ ビヨンド」
現在も放送中の「人生の楽園」でナレーションを担当。「ドクターX〜外科医・大門未知子〜」シリーズでも院長役として存在感を示していた。
映画では「劇場版ドクターX FINAL」(2024年12月6日公開予定、監督:田村直己)が遺作となった。
愛らしい容姿とキャラクター、俳優としてのアドリブ力に加え、バラエティー番組でも軽快なトークを展開。司会・歌手・俳優と才能を発揮した。2008年紫綬褒章受章。
●受賞歴●
1975年:芸術祭優秀賞(私はルビイ)
1977年:第12回紀伊国屋演劇賞(写楽考):第15回ゴールデンアロー賞<放送賞>
1993年:日本アカデミー賞優秀主演男優賞(寒椿)日本アカデミー賞優秀助演男優賞(おろしや国酔夢譚)日刊スポーツ映画大賞(学校)
1994年:日本アカデミー賞最優秀主演男優賞(学校)ゴールデンアロー賞<映画賞>(学校)全国映連賞主演男優賞(学校)
1997年:日本アカデミー賞優秀主演男優賞(学校2)
2004年:ブルーリボン賞主演男優賞(ゲロッパ)(釣りバカ日誌14)毎日映画コンクール主演男優賞(ゲロッパ)(釣りバカ日誌14) 報知映画賞最優秀主演男優賞(ゲロッパ)(釣りバカ日誌14)日本アカデミー賞優秀主演男優賞(ゲロッパ)(釣りバカ日誌14) 全国映連賞主演男優賞(ゲロッパ)(釣りバカ日誌シリーズ) ベスト・ファーザーイエローリボン賞
ご冥福をお祈りいたします。
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