今日(4月6日)夜8時から、BS11で「華麗なる名女優の軌跡」と題して、第一部
「思い出のオードリー・ヘップバーン」第2部「永遠のマドンナ マリリン・モンロー」が放送された。
第1部「想い出のオードリー・ヘップバーン」では、ロジャー・ムーアがホスト役で登場し、オードリーの出演映画と、オードリーの輝かしい軌跡を映像とともに紹介した。
2013年は、オードリー・ヘップバーンが1993年に亡くなって20周年にあたる。
放送されたドキュメンタリーはオードリーの亡くなった年に制作された記念すべき映画で、オードリーが由緒ある家庭に生まれ、バレエダンサーとして出発し映画スターになるまでと、その後のオードリーの栄光物語が描かれている。
「ローマの休日」でアカデミー賞主演女優賞を受賞し、さらに5回にのぼるアカデミー賞候補に選ばれるなど大女優としての輝かしい黄金時代と晩年のユニセフ親善大使としての活躍、そして一生を終えるまでが、多くの映画の名シーン、アーカイブフィルム、ニュース・フィルム、エピソードなどを交えて垣間見ることが出来た。
グレゴリー・ペックが「ローマの休日」に出演する時には、新聞記者役の自分自身が主役の映画と思っていたという。ところが、監督のウイリアム・ワイラーがブローウエイの「ジジ」の主演を務めていたオードリーを起用、テストの映像をペックに見せると、ペックは「これは記者が主役でなく王女の物語だ」と俳優クレジットの扱いも同等にするよう申し入れた。これには、製作側も渋ったようだが「(オードリーを)軽く扱うと後で後悔することになるぞ」と押し通したという。
また、映画の中で、新人ヘップバーンの素晴らしさを引き出そうと、「真実の口」のシーンの撮影では、本番で真実の口に手を突っ込んだグレゴリー・ペックが、本当に手を噛みちぎられたように演じた。ヘプバーンは驚きのあまり、本気で叫び声を上げ、素のリアクションを見せたという。この自然体な演技は、二人を十分満足させるものであり、1テイクでOKがでたという。
「手を噛みちぎられたように演じる」のはオードリーには知らされていなかった!
「パリの恋人」では、あのタップダンスの天才、フレッド・アステアと共演することになり、「女性だったら誰でも、夢見る共演だ」と当時の興奮ぶりを語っていた。
映画音楽作曲家のヘンリー・マンシーニは「ティファニーで朝食を」の音楽などを手掛けたが、オードリーがギターを弾くシーンで歌うところや、タクシーから猫を出したり、雨の中で猫を発見したりするシーンなどについて振り返った。
アカデミー賞主演女優賞のオードリーの受賞のスピーチのシーンも含まれていた。
第2部「永遠のマドンナ マリリン・モンロー」
世界中誰でも知っている程有名で、映画ファンに愛され20世紀のアイコンとなったマリリン・モンローのトリビュート。
モンローは不幸を努力によって幸運に導き、栄光に満ちた大スターとなり、波乱な生涯を終えた。ノーマ・ジーン・ベイカーの名前で貧しくて不幸な家に生まれ、親に見捨てられ孤児院で育ったマリリン。16歳で結婚しモデルの仕事をしたが夫の反対で離婚。時はハリウッド映画の黄金時代で、マリリンは夢を抱いてハリウッドに。
プレイ・ボーイのヌード・カレンダーで有名となり、スーパー・スターダムへの一歩を踏み「アスファルト・ジャングル」など三本の映画に出演。映画の宣伝の写真で世界中に彼女のグラマーな魅力が知らされるようになる。1954年にジョー・ディマジオと結婚。
ディマジオはマリリンが「七年目の浮気」の中で、あの地下マンホールの通気口の風でスカートがめくれるシーンを見て、その女優という仕事を軽蔑することになり、結婚は破綻し、ニューヨークに行くことになる。そこで劇作家のアーサー・ミラーと知り合い惹かれる。
仕事に復帰したころ、当時のケネディ大統領との不倫が問題となり遂に映画会社から解雇されてしまう。意気消沈したモンローは極度のストレスに悩まされ精神の攪乱状態に陥る。
1962年8月4日マリリン・モンローは36歳の若さで死亡していることが発見される。
死因については自殺説もあるがまだ不明。しかしマリリンの写真、映画、伝説は世界の人々の脳裏に残り死後50年にして、その魅力は褪せることがない。
死因については自殺説もあるがまだ不明。しかしマリリンの写真、映画、伝説は世界の人々の脳裏に残り死後50年にして、その魅力は褪せることがない。
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まったくタイプの異なるハリウッドの2人の女優だが、20世紀を代表する女優であることは間違いない。オードリーが亡くなって20年、モンローが亡くなって50年。映画がある限り、二人の輝きは消えることはない。
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