「実録ブルース・リー/ドラゴンと呼ばれた男」(1993)を見た。
「(チャック)ノリス、(ジャン=クロウド)ヴァン・ダム、(スティーブン)セガ―ルの前に一人の先駆者がいた。身長171センチでありながら、巨人であり、かつ伝説的な存在であり、今世紀(20世紀)最大のマーシャル・アーツ(武道)の達人だった」
映像では、葬儀の模様が映し出されるが、そこにはスティーブ・マックィーンや、ジェームズ・コバーンの姿もあった。ジェームズ・コバーンとは、公私ともに親しかったことが分かり、興味深い。コメントもかなりの部分を占めている。コバーンは「リーが23歳のときにはじめて会ったが、鋼鉄のような身体だった」という。
リーの息子、ブランドン・リーも若くして亡くなったが、「父(ブルース)と生まれた環境も全く違うし、真似をするだけでは意味がない。映画界に入れるきっかけをもらったことは感謝したい」と語っていた好青年だったが、事故で亡くなった。ブルース・リーの奥さんのリンダさんは「ブルースは、単なるアクションスターではなく、幅広い哲学、武道などの啓蒙者だった。また、ブランドンの死も無駄にしないよう、訴えていきたい」などと語っていた。
ところで、1974年のはじめごろは、日本の映画界は、一人のカンフー俳優によって席巻されるような騒ぎとなった。ブルース・リー(本名・李小龍、リー・シャオロン)が日本のスクリーンにはじめて登場したからだ。
すでにブルース・リーは7月20日に薬の副作用などが原因で亡くなっていたが、リーの残した4本の映画の中でも、最大の代表作が日本では真っ先に公開されたのである。
映画の公開当時は、社会人1年生で、1-2年先輩の女子社員などは、もうきゃあきゃあと「燃えよドラゴン」の話題で持ちきりだった。私も映画ファンのはしくれ、普段は女性陣の会話には入りにくいはずだが(爆)、映画の話となると話は別。 fpdが “主導権を握るくらい”に話していた記憶があります!(爆)。
実は、ブルース・リーは、「ドラゴン危機一髪」(1971)「ドラゴン怒りの鉄拳」(1972)「ドラゴンへの道」(1972)の3作品ですでに香港では不動の人気を誇っていた。
1972年に「死亡遊戯」の撮影がスタートしたが、ハリウッド(ワーナーブラザース)の企画が持ち上がったために、いったん「死亡遊戯」の製作は中断して、1973年1月から「燃えよドラゴン」の撮影がスタートしたのだった。映画は完成し、中断していた「死亡遊戯」を再開しようとした矢先、同作品で共演予定の女優の自宅で鎮痛剤などの薬の副作用などで亡くなったのだった。
ブルース・リーは、中国・香港の伝統的な武道とは別の独自の武道を提唱したということで、旧来の正統派武道派からは、大きな反発もあったようだ。
いずれにしても、ブルース・リーの名前が、映画史に残ることは間違いなさそうだ。
あの”アチョー”という叫び声と、ヌンチャクのさばきは、神技としか言いようがないですね(爆)。
出演映画
★★
って、宣伝係か、fpdは!(爆)。