「裏窓」は、ヒッチコック監督が、グレースをカメラで抱くように捉えたという。
カメラに向かって、このポーズはありえない(笑)という意見も・・・。
ダイアナ妃が憧れたという女優グレース・ケリー。
その美貌から「ハリウッドのクール・ビューテイー」としてアカデミー主演女優賞を手にし、モナコ公妃へ。世紀のシンデレラ・ストーリーは世界中の女性たちの憧れの的となった。
しかし、その影には知られざる挫折と苦悩があった。
しかし、その影には知られざる挫折と苦悩があった。
次々と引き起こす年上男性とのスキャンダル。どんなに銀幕で成功しても、認めてくれない父との確執。そして、女優としての才能の限界・・・!?
生涯、追いかけ回されたパパラッチの存在。そして元ハリウッド女優の肩書きが公妃として、母親としてのグレースを追い詰めた。
果たして彼女は幸せだったのか・・・?
果たして彼女は幸せだったのか・・・?
謎多き、世紀のシンデレラの人生をプロファイルする。・・・という番組だった。
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それは、父親の一言だった。
それは「姉の方が何事もできて、先に有名になると思った」だった。
父・ジャックはスポーツでオリンピックで金メダルを取り、地元のフィラデルフィアでは名士だった。女優という職業すら認めていなかった父親が、女優の最高栄誉であるアカデミー賞主演女優賞を受賞しても認めず、交際相手を紹介してもことごとく無視していたのだ。
グレースがモナコ公国のレーニエ公と結婚して、はじめてグレースを認めたという。
「反対する理由はないだろう」(父親ジャック)とはじめて喜んだという。
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グレースの苦悩は、モナコ王妃になってから続いた。
フランス語が話せず、モナコ国民からは、「火星人」のように見られたというのもきつい。ヒッチコック映画の誘いが有り、レーニエ公も理解を示したのだが、国民の反対が有り、同時に、フランスから支援を受けていたモナコに、金融危機が訪れた。これにより、フランスが支援を中止するというのだ。
その時に、グレースが女優を断念し、自ら前面に出て、モナコの”広告塔”になってフランスに出向き、モナコを救うよう申し入れ、外国からのモナコへの投資も継続させ、国を救ったのだった。これによりモナコ国民から絶大の信頼を得ることになる。
このあたりは、映画「グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札」に描かれていたので記憶に新しい。モナコの金融危機を救う切り札となったのが、ほかならぬグレースだった。1982年に52歳の若さで自動車事故で亡くなったグレース・ケリー。
ヒッチコックと出会わなければ、女優として成功することはなかったとも言われている。「真昼の決闘」にしても、主役の引き立て役にすぎず、演技も認められていなかったグレースは、必死に演技も勉強し「喝采」で、演技派女優でないグレースが美貌をかなぐり捨ててぶつかったことが評価されたようだ。
人口23,000人の世界で二番目に小さい国「モナコ」を有名にしたのは、グレース・ケリーだとも言われている。観光とカジノ、自動車レースくらいしかないモナコだが、グレース・ケリーの名前は、モナコのバラの名前に「グレースのバラ」と名付けられ残されている。
グレース・ケリーの両親のしつけは厳しかったようだ。
出かけるときなどは、上品さ,品格を保つために白い手袋が必須だった。
「真昼の決闘」のオーディションでも白い手袋をはめて受けて合格した。
グレースの3人の子供にも、親から受けたしつけについて受け継いだ。
娘がジーンズでスニーカーというカジュアルな服装で、母グレースが宿泊する一流ホテルを訪ねた時に、コンシェルジュは、「その服装ではお通しできません」と告げた。「私を誰だと思っているの」とその場で、直接電話で母グレースに電話をすると、
グレースの返事はこうだった。
「そうよ。その通りよ。家に帰って着替えてからいらっしゃい」。