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「名作に進路を取れ!」…映画とその他諸々のブログです。

<span itemprop="headline">懐かしの芸人②「牧野周一」</span>

懐かしの芸人の二番目は、漫談の牧野周一(1905~1975)です。

「牧」の名前をつけた「牧伸二」「ポール牧」はお弟子さんですね。
ポール牧は、後に破門され、亡くなりました。ウクレレ漫談の牧伸二は、
「あああ~あああ、やんなちゃった、あああ~あああ、驚いた!」で有名でした
(「大正テレビ寄席」の司会で)。

われわれの世代は、牧伸二の時代ですね。

牧野周一は、もともと活弁(活動写真=映画の弁士)で、その後、テレビの開始とともに、漫談家として、活躍しました。1923年に、活動弁士徳川夢声に弟子入りし、広尾不二館で、“洋画説明者”の
初舞台を踏みました。


 映画が、無声映画中心だった時代は、仕事がありましたが、映画がトーキー(音声付き映画)の時代になったため、漫談に転じて、民放放送の開局とともに、一躍人気者になりました。

漫談とは、演芸の一つで、世相などを話題として風刺や批評をまじえた軽妙な話芸。

この人の特徴は、“大きな耳”(笑)。
マギー 審司の「大きくなる耳」ほどではないが(笑)。

語りはソフトで、時事ネタが多かったような記憶があります。

世間話から世相批判まで、あらゆる話題をネタにしていました。

なかでも、漫談という言葉の命名者といわれる大辻司郎(初代)の物まねをしていました。
「今、停電ですが・・・ 電気会社に電話したところ・・・電気は・・・もう、そこまで来ている
ようですので・・・もうしばらくお待ち下さい・・・」(・・・は、間をおく)などがありました。
二代目・大辻司郎は大豆相場を描いたテレビ番組「赤いダイヤ」に出ていましたね。

時事ネタでは、コロンビア・トップ・ライトなどが当時は有名でしたね。

テレビ時代の草創期から、漫談というエンターテイメントの一つの分野を支えた一人でした。