「ゲームの規則」(Rules of the Game)予告編
ジャン・ルノワールは、名前の通り、印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールの次男で、パリ・モンマルトル(画家の卵が集まることで有名な地区)に生まれる。ちなみに喫茶店の老舗のようなコーヒー・チェーンの「ルノアール」は、画家のルノアールに由来している。
映画の製作は1939年。
1939年といえば、第2次世界大戦(1941年~1945年)の2年前で、ナチス・ドイツがフランスに侵攻する前だったこともあり、そうした影はまだみられず、当時のブルジョア階級といわれる金持ち階層の娯楽の一つである「狩猟」(ターゲットは、野うさぎとキジ)パーティなどに明け暮れる姿と、人間模様を描いている。
群像劇で、登場人物を理解するのに苦労するが、”ゲームの規則”の規則の意味するところが、徐々に明らかになる。どこかの解説で、「群衆劇」というのは気合いを持って見ないと理解しにくいと書いてあったが、登場人物などの一覧表を手元に置いて「確認」しながら見た(映画館では、できない芸当だが。爆)。
DVDのラベルの宣伝文句は「既成の価値観が崩壊する時代の憂鬱を自由奔放なストーリー展開で描く。」とある。
この映画の評価は、初公開時まったく評価されず、それどころか、ブーイングが大きかったという。その映画を高く評価したのは、、フランスのヌーベルバーグのフランソワ・トリュフォーなどの新進の映画作家たちだった。
1939年に製作された映画としては、まず「風と共に去りぬ」「オズの魔法使い」などがあるが、第2次世界大戦が勃発した関係で、「風と共に去りぬ」の日本初公開は、1952年と製作後13年の歳月を経ていた。「オズの魔法使い」も1954年末になってようやく日本で公開された。
この「ゲームの規則」の日本公開は、製作年から遅れること43年後の1982年だったというのも驚きだ。日本の映画雑誌などで取り上げられても、長い間「幻の名作」だったことになる。映画史上のベスト1作品と言われることが多い「市民ケーン」も1941年の製作ながら、日本での劇場初公開は、1966年(1961年にTV放映は1度あった)と、25年後だった。
あらすじは・・・。
ブールジェ飛行場に到着した飛行家アンドレ・ジュリユー(ローラン・トゥータン)は、熱狂した群衆に迎えられた。彼は大西洋を23時間で横断したのだ。記者や群衆が熱狂する中、ラジオ局の女性リポーターが、「快挙を達成した感想を?」とマイクを差し出すと、返ってきた言葉は、”興奮”を伝えるものとは程遠い、意外な言葉だった。
「自分がこの冒険に挑んだのはある女性のためだったが、その彼女が出迎えに来ていない」と不満を表明したのだ。
その女性、ラ・シェネイ候爵夫人クリスチーヌ(ノラ・グレゴール)は、パリの邸で小間使いのリゼット(ポーレット・デュボー)に着替えを手伝わせながら、そのラジオ放送を聞いていた。
アンドレの親友であり、クリスチーヌの相談相手でもあるオクターブ(ジャン・ルノワール監督自身が出演)は、クリスチーヌに働きかけ、ラ・シュネイ家の領地コリニエールで催される狩猟の集いにアンドレを招待させる。ロベールも、自分の妻がアンドレに会うのを黙認せざるを得なかった。
コリニエールの密猟監視人シュマシェール(ガストン・モド)は、妻のリゼツトと別居しているのが不満の種だが、ある日、密猟人のマルソー(ジュリアン・カレット)をつかまえる。
そこに通りかかったロベールは、マルソーが気に入り使用人としてやとうことにした。
狩猟の日、ジュヌビエーブと別れることにしたロベールは彼女と別れのキスを交す。
それを偶然に目撃したクリスチーヌの目には、密会のようにうつった。翌日、クリスチーヌは彼女に愛を打ち明けるサン=オーバン(ピエール・ナイ)と姿を消し、アンドレはサン=オーバンを殴る。台所ではマルソーがリゼットを口説いているのをみて、シュマシェールが追いかけまわす。候爵はクリスチーヌとアンドレが抱き合っているのを見つけ、アンドレを殴り倒した。大混乱のあと、平静を取りもどしたロベールはアンドレと和解し、騒ぎをおこしたシュマシェールとマルソーを解雇した。
解雇された二人が庭で話しあっていると、ベランダにオクターブとリゼットの姿が見えた。実はそれはリゼットのマントをはおったクリスチーヌだった。クリスチーヌはオクターブに、自分が本当に愛しているのは貴方だと打ちあけた。
二人は一緒に逃げる約束をし、オクターブはコートを取りにもどる。しかし、リゼットにたしなめられ、アンドレに出くわしたオクターブはコートを彼に渡した。嫉妬にかられたシュマシェールの銃が火を吹き、アンドレはその場で息絶えた。
ロベールは、この事件を、仕事熱心な密猟監視人が職務に忠実なあまり起した事故として処埋。お客も何事もなかったかのように、それぞれの部屋に引き返すのだった(HPより)。
映画を見ていないと、上の「あらすじ」をみても、混乱するばかりだろう。
なにしろ、妻・夫がありながらそれぞれ愛人がいて、使用人にも、夫・妻以外に愛人がいるという、四角(□)関係、三角(△)関係が複雑に絡み合っているのだ(笑)。
セリフも、随所にチクリと監督のブルジョアやマスコミを批判する言葉が出ていておもしろい。「ウソをついている」という話題になったときに、「今はそういう時代なんだ。薬の広告、政府、ラジオ、映画、新聞も嘘をついている。当然個人もウソをつくようになる。」(何やら、今の時代のどこかの政府の昨年あたりのスポースクマンにも当てはまるような)。
主役の候爵夫人クリスチーヌを演じるノラ・グレゴールという女優は、この映画の直前にオーストリアの侯爵と結婚しており、現実に侯爵夫人であり、映画でも風格と気品があった。狩猟パーティでは、夫の愛人・ジュヌビエーブと対面するシーンがあるが「(私が)夫とあなたのことを邪魔したことがある?」と通常では考えられないような理解を示す。ジュヌビエーブは、オーストリア出身で、パリは異国の地。
夫のロベールからは、「(オーストリアでは、親愛の情からよくても)パリでは、だれかれ構わず相手の首に抱きつくクセはやめてくれ」と言われていたのだが、ジュヌビエーブと相思相愛のアンドレ以外にも、もともとアンドレとジュヌビエーブの間を取り持ったオクターブも、ジュヌビエーブにぞっこんで、親しくしているのである。「社交界にも規則がある」というセリフも飛び出す。
男が、これから愛人と駆け落ちしようという時に、その愛人に「主人に知らせておくべきだ」というのだが、女性は「その必要はない」という(当然だろう) ↑左がオクターブ(ノワール)
男同士の会話で「アラブ人になりたくないか?」と聞く。
「なぜだ?」というと「ハーレムがある」という(爆)。
印象に残る言葉は「いいことと悪いことが分からなくなってきた。この世は恐ろしい。誰にでも言い分はある」だ。エゴをむき出しに、自分中心に世界が動いていると思いがちな現代社会にも当てはまりそうだ。一時はやった歌に「世界は二人のために」なんていうのがあったが、とんでもない誤解だろう(爆)。
この映画は、かなり残酷なシーンも多い。
狩猟のシーンだ。野うさぎを、広い荒野に十数人で追い込んでいき、逃げるうさぎを銃で撃つというゲームだ。
「うさぎ」を家でペットで飼っているブログ友のmegさんがみたら、卒倒してしまいそうだ。競走馬の管理をしている馬主や、厩務員は、決して「馬刺し」は食べない、と聞いたことがある。それはそうだろう。(寿司屋に行って、今日はおいしい馬刺しがありますよ、と言われて、「おいしそうですね」と食べてしまうのは、”極悪人”におもわれるだろう。品川の寿司屋で、何回か食べたが、ま、普通の牛肉のようだったが。笑)。
この映画では、小道具も効果的に使われている。小さな双眼鏡もその一つ。
木に上っている「リス」を遠くからでも、リアルに見ることができ、双眼鏡は「小さくて便利ね」とみていたら、見てはいけないシーン(自分の夫が、別の女とキスをしていた)を見てしまったり・・・笑。自動楽器や自動演奏ピアノも登場する。
侯爵、使用人、密漁者、侍女など様々な人物が登場する何でもありのドタバタの群像劇だが、そこの根底にあるのは、既成の価値観の崩壊で、その現実を映し出していることだ。カメラの動きも、すばらしい。館の夫妻の背中からカメラが追っていくが、部屋に入ろうとする瞬間に、カメラはそのまま、となりの部屋で身支度をする侍女にそのまま流れていくカットなど、リアルだ。
「The有頂天ホテル」でも、大広間で一か所の人の数人のシーンを映していたカメラが、そのまま、移動して、別のグループに移っていくシーンが、ワンカットで流れていく・・・というそんな感じだ。
この「ゲームの規則」は、2度くらいみると、その良さが倍増するかもしれない。
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