イタリアのナポリ郊外、イタリア屈指の無法地帯と呼ばれる荒れた海辺を舞台とした、サバイバルドラマ。売春、人身売買組織の手先として働くヒロインが、逃げた娼婦を必死に捜す中で、自らの妊娠を機に人生を変える賭けに出る物語。
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ナポリの北西にあるカステル・ヴォルトゥルノは、水辺にある荒廃した劣悪環境。「どうせ死ぬなら、好きに死にたい。」マリア(ピーナ・トゥルコ)の時間は川のように流れていく。彼女はフードを被って力強く歩く。夢も希望もないその日暮らしで、母の面倒をみながら、宝石に囲まれた冷たい老女に仕えている。
獰猛な目をしたピットブルと共に、マリアは妊婦を連れてフェリーで川を渡る。彼女たちには地獄のような運命が待っている。しかし、マリアにも希望が訪れる。最も根源的で力強く、人生と同じくらい奇跡的な形で。それはマリアに人間でいることは何よりも素晴らしい革命だと教えてくれるものだ。
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この映画がかなり異色なのは、売春組織を牛耳るのも、売買される娼婦や子供を管理するのもすべて女性という設定だ。映画には、娼婦の客となる男たちは影にも一切登場しない。男性・女性という捉え方ではなく、希望を持った人間、希望を失ったなった人間という捉え方をしているようだ。
アンジェリス監督が映画のあと登壇し、語ったところによると「男たちが男の役割を見失い、迷った世界像を描きたかった。この映画では、女が男としての役割を担い、最後に、唯一男として認められる男をひっぱってくる。自分が3人の女性に育てられたので、女性を描いた。女性は弱いというクリシェ(決まり文句)を壊したかった」とその意図を語る。
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映画が終了すると、自然に拍手が巻き起こった。
カンヌ映画祭のように、観客のスタンディング・オベーションはなかったが。
監督の第一声は、前日亡くなった友人の監督二ケーレ・ガリーロ監督に
1分間の黙祷を捧げたいだった。観客一堂1分間黙祷した。
荒涼とした川沿いに娼館や簡素な住居が立ち並ぶ物語の舞台背景に関しては「飢えや戦争からの難民、仕事を失った人などが辿り着く場所がある。そこでは、この映画のように売春で生きたり、そこで生まれた子供を売るような仕事をしている人もいる。そして、その運命の先は誰も知りません」と、現実にもこの物語に近い環境があることを示唆している。
日本にも戦後まもない頃の闇市や、赤線地帯のような生き抜くのが精一杯の時代があったが、いまもイタリアの片隅にはそうした地域が存在しているようだ。
監督は、美しさと醜さが同時に存在している場所だという。
「売春宿が存在しているのは残念ながら真実だ。そこでは女性が奴隷のように働かされている」という。このことは忘れてはならないとも言う。
映画の本編が終了して、エンドクレジットが流れたあと、数秒間の映像が流れる。
マリアが生んだ赤ん坊に、そっとだれかの手が差し伸べられる。そして、ブランケットがかけられる。このシーンに関する質問について、監督は、人生にもこのような(毛布をかけてくれる)ことが起こればいいなということを表現したという。
映画の役柄とはガラリと別人のような主演女優ピーナ・トゥルコ(左)
主演のピーナ・トゥルコは、初めての日本訪問で「(観客の)笑顔に触れてうれしい。イタリア人の歓迎ぶりと同じようなホスピタリティ(おもてなし)があることを知った」と、歓迎ぶりに感動した様子。「同じ人間なんだと感じた」には観客も笑った。
役柄を演じるにあたっては、数ヶ月前から役作りのため、身体にストレスをかけ、身体づくり、人物造形ができていったという。監督の要求も厳しかったという。
音楽が素晴らしかった。
「堕ちた希望」の音楽は、時にはアフリカ系の音楽だったり、映像にマッチしていた。
エンツォ・アヴィタビーレは、音楽のストックがたくさんあり、台本を書きながら音楽を作っていったが、あわせて既存の曲も取り入れたという。
予告編
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