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「名作に進路を取れ!」…映画とその他諸々のブログです。

<span itemprop="headline">映画「武蔵野S町物語」(2012)</span>


映画 「武蔵野S町物語」公式予告編
 

 
原作は「昭和三十年代のはじめごろ、僕はげんきいっぱいの小学生で、ところかまわずかけずりまわっていた」で始まる文章。一機の小型飛行機が商店の宣伝ビラをまいた日のことを生き生きと描き、「記憶の中の飛行機は、いつでもなにかを期待させてくれた」と結んでいるようだ。
 
映画「武蔵野S町物語」は、ちょうど1年前の2012年6月16日(土)公開されたが見逃していたのでみた。
 


S町というのは、現在の埼玉県志木市
志木市といえば、4年ほど前に1年余り勤めた会社があるのでなじみが深く、東武東上線志木駅をはじめ、河童(かっぱ)伝説で有名なことから、河童の像があるところを20か所近くデジカメで写真を撮り、記事にしたこともある。映画でもいきなり河童の親子の映像が映る。慶応大学の付属高校の一つ、慶応志木高校があることでも知られている。
 
・・・という前置きはそのくらいにして、この映画は志木市出身の故永倉萬治の同名の小説を映画化したものである。映画は、現在の志木市のお祭り風景が描かれるが、その仲間たちの昭和30年代の子供時代が、回想的に描かれる。まさに”三丁目世代”である。
 
・・・
昭和30年代も前半、子供たちは、お互いを”小林少年”であったり”明智小五郎”であったり”赤胴鈴の助”という名前で呼び合い、木々に囲まれた武蔵野の大地を駆け回っていた。
 
当時ラジオやテレビで人気があったドラマ「少年探偵団」「怪人二十面相」「赤胴鈴の助」などの主人公の名前を取ったものだが、赤胴鈴の助のことを、何回も”竜巻雷之進(たつまき・らいのしん)”と間違えるたびに、「赤胴鈴の助だってば!」と言い換えるのがおかしい。
 
赤胴鈴の助であることから必殺技”真空切りだぁ~”とチャンバラしたりする。真空切りは、刀を捨て、素手で戦うものだ。一方、竜巻雷之進というのは、赤胴のライバルで”稲妻切り”の技だった。悪人だったが、やがて、赤胴と親しくなっていった。
 

 
子供のころというのは、「誰それは誰ちゃんが好き」と言い合ったりするもので、本人を前に、それを言われた”赤胴鈴の助”は、それこそ顔をくして、「好きじゃない!」と全否定するのだが、逆に「むきになって」と火に油。
 
何日かして、「あの時は、嫌いって言って、ごめんね」と謝るシーンがある。
この二人、30年後には、夫婦になっていた。ラストでは、その夫は他界してしまい、妻は様々な思いがよぎり涙するのである。
 
この夫婦、原作者の分身だが、大杉漣宮崎美子が演じている。夫の墓参りでは、すでに娘と孫がいて、その孫も、昭和30年代のころのように走り回っている。
 
子役たちは、生き生きしていて、演技をしているとは思えない。
赤胴鈴の助、怪人二十面相を知っている年齢ではないが、よくも自然に体に染みついているように、ポンポン口から出てくるものだと感心する。
 
ドラマチックな映画ではなく、淡々と描かれるが、まさにfpdと同じ、三丁目世代には懐かしさを感じる映画ではある。
 
決して豊かな生活ではなかった昭和30年代。
食卓には、形もごろごろしたような大きな「コロッケ」が山盛り出てくる。
子供たちは「また、コロッケか」というが父親は「贅沢言うな」とたしなめる。
 
子供は「今日もコロッケ、明日もコロッケ、これじゃ、年がら年中、コロッケ、コロッケ♪」という当時はやった歌を口ずさんでいた。
 
昭和30年代初めといえば、まだ終戦後という時代で、シベリアで捕虜だった兵士が帰ってってくるシーンがある。当時は、国のために死ぬというのが風潮で、帰還兵は
自分を歓迎してくれた仲間たちに「よくぬけぬけと帰ってきたなと非国民呼ばわりされるかと思っていた」と涙ながらに語る。
 
当時の子供たちは、シベリアといっても、大人たちから聞いたことで、小○も凍ってしまい、棒をもって、たたきながらするのだと真顔で言うのがおかしい。
 
自伝的小説で、物語の起伏がほとんどなく、単調になっているので、映画的には、「それで」と突っ込みも入るが・・・笑。
 
★★
 
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