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「名作に進路を取れ!」…映画とその他諸々のブログです。

映画「十月」(1928)エイゼンシュテインの「ロシア革命10周年記念映画」。

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十月」(原題:October: Ten Days That Shook the World,1928、日本公開1969)を見る。「エイゼンシュテインに進路を取れ!」。ソビエトの偉大な映画作家セルゲイ・M・エイゼンシュテイン監督・脚本によるソビエト革命(ロシア革命)10周年記念映画。撮影はエドゥアルド・ティッセ、音楽はディミトリ・ショスタコヴィッチ、美術はV・ゴブリーギンが担当。”キネマの神様”たっふぃーさんの言葉を借りれば「埋もれた名作」であり「語り継がれるべき映画」ということになる。

ロシア革命は、1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称だが、史上初の社会主義国家樹立につながったことに重点を置く場合には、「十月革命」のことを意味している。

映画はサイレント映画でセリフはない。英語字幕版で見たが、説明文も少ない。

映像の切り替え編集が巧みで、今の映画の原点のように思える。顔のアップ、手のアップ、部屋の人々の出入りなど足元だけのシーンで表現。蒸気機関車、戦車、群衆の走るシーンなどドキュメンタリーそのものの印象。

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ライフルや拳銃などの銃器が登場するが、ライフルの実弾の装填場面など細かい描写には唸らされる。銃の発砲シーンもリアルで、酒類の瓶に当たると瓶が割れて飛び散り迫力がある。ラストの勝利のシーンでは、群衆の拍手の音や、靴音などのサウンド(音)といった効果音が入り盛り上がりを見せている。90年以上も前の作品とは思えないスケールの大きさと迫力には驚かされる。 

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1917年3月(旧暦2月)、画面に映し出されるアレクサンドルⅢ世の鋼像。労働者たちが像にはしごをかけて、像の顔の部分に何本も縄を巻きつける。やがて像が引き倒される。

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第一次大戦の最中、ロシアの民衆は遂に帝政を打倒したのだった。ブルジョアジーは臨時政府の成立を祝い、前線では、平和の到来を期待してロシアとドイツの兵士達が固い握手を交そうとしていた。だが、政権を取ったブルジョア臨時政府は、戦争続行を命令する。

4月、ペトログラードは、配給のパンの大きさも、1ポンドだったものが、半分になり、さらに4分の1、ついには8分の1となり、民衆は飢えと寒さに苦しんでいた。

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そんな中、レーニンは亡命先から帰国し、フィンランド駅頭で臨時政府打倒を訴え「全ての権力を労農ソビエトヘ!」と声明する。

7月、ペトログラードの労働者、農民、水兵の平穏な非武装のデモ隊に対して政府側が機関銃を掃射した。

レーニン率いるロシア社会民主労働党ボリシェヴィキの事務所や機関紙の印刷所が襲撃され、ボリシェヴィキは再び地下活動を余儀なくされる。

10月、ボリシェヴイキの中央委員会は11月6日の武装蜂起を決定する。そして11月7日、第2回ソビエト大会が開かれると時を同じくして、ネヴァ河に浮かぶ巡洋艦オーロラ号の砲撃を合図に臨時政府最後の砦、冬宮への総攻撃が開始された…。

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革命の幾つかのモニュメンタルなエピソードを再現させるとともに、劇映画で初めてレーニンを登場させた作品となった。本作でもエイゼンシュテインは、徹底した記録映画的手法によっていて、クライマックスの冬宮襲撃をはじめ、7月デモに対する血の弾圧、フィンランド駅前広場でのレーニンの演説などの群衆シーンが圧倒的な迫力で描かれている。

 

【背景】革命前夜のソビエトボリシェビキの指導者レーニンは、来たるべき革命は、プロレタリア革命であることを強調。レーニンは一旦はフィンランドに亡命。九月に入ると、ロシアの食糧事情は極度に悪化。ボリシェビキの支持者は増加し、亡命中のレーニンは、武装蜂起をうながした。10月20日、ひそかにペトログラードに帰ったレーニンは、中央委員会に参加、蜂起は第二回ソビエト大会の前日、11月6日と決定。当日、軍事委員会の蜂起指令により、労働者の赤衛軍は、各連隊の兵士、クロンシュタットの水兵と共に行動をおこし、要所を占領。11月7日(露歴10月25日)午前10時、軍事革命委員会は、臨時政府の倒壊とソビエト政権の樹立、講和会議の開催、地主的土地所有の廃止などを宣言。そして、赤衛軍が冬宮を攻撃する砲声がとどろく中で第2回全ロシア・ソビエト大会がスモルヌィで開かれ、すべての権力をソビエトに移すことを宣言した。