スポニチ新聞の取材に対して「授業は休まずに行く。学校に迷惑を掛けない学生でいたいけど、今までにない生徒になりたい」と喜びを語り、同大学の硬式野球部に「お笑いコーチ」として入部する野望を明かした。
73歳にして、お笑いの世界からキャンパスに。
時には一日10数時間にも及んだ猛勉強をしたという。先月22日に合格通知を受け取った。
昨年3月、東京・明治座公演で大劇場を引退し「ひとつ辞めたら、何か足さなきゃと思ったのがきっかけ」。一番大変なことに立ち向かおうと考えた末「認知症に立ち向かおうと思った。だったら記憶をすればいいと考えて」勉強を始めた。
親交のあるプロ野球・DeNAの中畑清監督(61)の母校で、約10年前にともに講演に招かれたこともある駒大を志望校に選んだ。
受験科目は英語と小論文。長く英語には縁がなく「三人称単数の勉強から始めなきゃいけなかった」と話す。当初は参考書も全く理解できず「全然ダメなまま4カ月が過ぎた」が、独自の記憶法を編み出し、急激に成績が上がった。
「Climate(気候)って単語があるじゃない。あれをローマ字読みして“クリ待て、聞こう”なんて小話を作ったの」。新たに参考書を自作し、約2500の英単語を暗記。見事合格を果たした。
一番やりたいことには「野球部に入りたい」と即答。
「駒大の野球部は面白いぞ、ってなればね。神宮球場をお客でいっぱいにしたいね。中畑さんみたいに“明るい選手は駒沢から”みたいなのが定着するとうれしいね」とニッコリ。古希を越えた新入生が”嵐”を呼びそうだ。
欽ちゃんは、中学卒業と同時に芸人を目指し浅草を代表する喜劇役者・大宮敏充(※)(写真:テレビの「デン助劇場」の”デン助”として知られた当時日本を代表するコメディアンで、fpdも小学生低学年で両親に連れられて浅草で生の舞台を見たことがある!)の元へ弟子入りを請うが「せめて高校を出てからおいで」と断られた。
高校卒業後、浅草公園六区にあった東洋劇場(東洋興業経営)の仲介で再度入門を請うべく大宮敏充が常打ちにしていた浅草松竹演芸場へと赴くが、寸前で入門することを取り止め、その足で同じ近隣の東洋劇場に入団。研究生としてコメディアンの卵となる。
テレビ界を席巻する時代が続いたが、1976年から始まっていたホームコメディのテレビ朝日(当初はNET)「欽ちゃんのどこまでやるの!?」(欽どこ)は、最高視聴率42%を記録。コント55号の映画も何本か作られた。「クレージー・キャッツ」のコミック・お笑いの後の時代に「ザ・ドリフターズ」と人気を二分した。
1971年のテレビの「チャップリンに会う」という企画(4日間)でスイスに隠遁生活のチャップリンを突撃訪問、当時面会拒否で絶対に人と会わなかったチャップリンだが、最終日に会うことが出来た。チャップリンに会うことができた数少ない日本人である。1977年にチャップリンの訃報に泣いたという。
70代の大学生、凄い。
息子か孫の世代の教授から教わるのか(笑)。
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