映画「クロワッサンで朝食を」予告編
「男が階段を降りるとき」とは・・・。
2階の自室でパソコンに向かっていると、下(階下)から「テレビにアラン・ドロンがでている」という声が。いつもなら、「忙しいのに、なんだ・・・」といいながら階段を下りるところだが、ドロンと聞いては、「ドロンが亡くなった?」と一瞬、頭をよぎったが、画面を見ると「太陽がいっぱい」の一シーンだった。
自分を見下す金持ちフィリップにいつしか殺意が芽生えるトム(アラン・ドロン)。
「太陽がいっぱい」のタイトルも秀逸だが、この映画が、日本で初公開されたのは
1960年6月11日と53年も前のこと。生まれてはいたが、fpdが洋画に目覚めるには、公開から10年近い歳月を必要とした。
「太陽がいっぱい」を知らない人がいっぱいの時代。
名作を知ってもらおうと、「午前十時の映画祭」のラインアップにも入っていたし、テレビでは、繰り返し放映されてきた。「午前十時」の上映の際には、チケットが即売り切れだったといい、往年の映画ファンの絶大の支持を受けているのがうかがえる。新しいファンも当然増えているだろう。
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映画の権利が切れたということで、配給会社が交渉して、オリジナルの35ミリでの上映が実現した。
シネコンはほとんどデジタル館になっているため、フィルム上映館は一部に限られるだろうということは想像できる。それでも35ミリで上映するのは、映画の持つフィルムの、独特の画面にあるのだろう。2番館などではフィルムの劣化があって、雨が降っていたりしたものだが、フィルムの状態が気になる。
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「太陽がいっぱい」を最初に見たのは、テレビだった。1969年4月4日だった。よく覚えているのは、1969年は、fpd洋画デビュー元年だったからだ。この年、3月に、名誉ある劇場洋画鑑賞第一号作品「ブリット」を見て、映画ファン(主に洋画)の仲間入りをした。小さいころ(小学生)から映画を見ているという同年代の人たち(ギドラキュラさんほか)から見ると、”遅れてきた青年”だった。
テレビでは、1972年10月6日(fpdの黒革の手帖=写真にも明記)、1977年1月12日、1984年9月2日、2008年7月20などで放映されている。劇場では、1970年代初めと半ばに2度、見ている。テレビとはいえ、最初に見た衝撃が大きく、劇場での2度目の鑑賞は、それほど大きなインパクトはなかった。
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「禁じられた遊び」などで名声を確立していた名匠ルネ・クレマンの傑作の1本だ。青年の野心ゆえの凶行が、今なお見る者の胸を締め付ける。アンリ・ドカエのカメラの映像美、ニーノ・ロータの哀愁を帯びた旋律による音楽。
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アラン・ドロンの日本の映画雑誌の当時の扱いは、格別だった。
たとえば「スクリーン」誌1973年3月号のページ↓。
眉間に深いタテジワをドロンに倣って我々映画ファンも作ってはみたが、ドロンのように”鋭く光る”瞳にはなれなかった(笑)。「無駄な抵抗は止めろ!」という声が聞こえてきそうだった。煙草を吸う姿、コーヒーを口に運ぶのさえ絵になる俳優だったのだ。ダーバンのコートを着こなしたCMも日本中を席巻した。
1972年3月号の「スクリーン」では、なんと、三つ折りのドロンの折込写真が・・・。
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シャンゼリゼ通りのカフェに入ると、なぜかクロワッサンを注文したくなる。
大きなコーヒーカップに泡たっぷりの”俺(おれ)、カフェオレ、シルブ・プレ”とカフェ・オレを注文して、店の外の通り沿いのテラスのような場所で、通りの行き交う人々を眺めるのも楽しみだった。遠き日の思い出のパリではある。
85歳にして映画出演のジャンヌ・モロー(右)
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現在御年85歳!にして映画女優として現役なのは、驚きだ。
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