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「名作に進路を取れ!」…映画とその他諸々のブログです。

★はてな「記憶に残っている、あの日」

振り返ってみると、10年に一度くらいのペースで「転機」となった「忘れられない日」があった。中でも、1,2となるのが「1975年5月30日」だ。

社会人となって丸二年が経過した3月ごろ(誕生月でもあり24歳、年齢がばれる)、会社から出向の話があった。日刊紙、月刊誌などを発行する、いわゆる業界専門紙誌の会社で英文雑誌の編集にかかわっていた。

その2年前にニューヨークに現地法人が設立されていて、現地でも月間の英文雑誌を発行しており、そのスタッフの一人としてトレイ二―(編集研修)を兼ねて勉強して来いという辞令だった。出向の期間は半年程度ということだったが、期待と不安でいえば50/50であり、業務命令で断るわけにはいかない。

そこで、ニューヨーク駐在経験のあった2,3年先輩の人に相談すると「行くべし。必ずためになる」と強い言葉があって背中を押してくれたので「よし」と決断した。

外国に行くなどというのは考えてもいなかったし、不安がないといえばうそになる。まだ成田空港開港前だった(成田空港開港は1978年)。羽田空港もニューヨークへの直行便はなかった。出発当日は、会社の同僚のほか、地元の小中の同級生などが羽田空港に合わせて10人以上が見送りに来てくれた。バンザイ三唱はなかったが、小さな旗を持っている人もいた気がする(笑)。

飛行機に搭乗すると、北回りのアンカレッジ経由だった。アンカレッジまで8時間くらいかかり、そこで給油のため2時間くらい停泊し、ニューヨークまでさらに8時間といった長旅となった。アンカレッジでは、食事をする時間があったが、早くも日本食がいいと思い「うどん」を食べたが、当時で、うどん一杯1,000円もした。

飛行機がだんだんとニューヨークに近づき、窓から見る光景は,広大そのもので、地平線の彼方を遮るものが何もないないといった印象で「これが映画でしか見たことがなかったアメリカか」とその巨大な大地に驚いた。日本を5月30日に出発して、到着したのも、時差の関係で同じ30日だった。

到着したJ.F.ケネディー空港には、会社先輩一家が出迎えてくれた。宿泊先は、この一家のアパート(日本でいえばマンション)の一室を借りて、居候のような形になるのだった。アパートは当時の日本人の駐在員がもっとも多く住んでいたクイーンズ区フォレストヒルだった。

会社はマンハッタンにあり、地下鉄で30分、徒歩10分ほどの通勤だった。朝食は、途中の店でベーグルコーヒーを買って職場で食べた。ランチは適当に近くの店で食べ、夜はアパートの先輩一家の家族と一緒に食事をした。

1975年は、秋に昭和天皇がちょうどアメリカを訪問した年でもあった。ニューヨークの日本食のレストランはラーメン店(サッポロ)など3,4軒くらいしかなかった。翌年の2月まで、約8カ月滞在した。

同僚のアメリカ人スタッフたちの電話の受け答えをまねして何とか電話恐怖症にはならずに済んだ。休日などは、建国の場所であるフィラデルフィアまで一人で列車で出かけた。アメリカ人の子供たちが、外人(日本人)ということで、好奇の目で見ていたと感じたのは、あるいは自意識過剰だったかもしれない。

映画が好きだったので、とにかく言葉が理解できてもできなくても映画館に通った。「ジョーズ」(1975)などは、スラングや難しいセリフがわからなくても、十分理解できた。「タクシードライバー」(1976)の公開が翌年というのも、いまからおもえば、あの喧騒とした街に自分も確かにいたんだなと回想にふけることもある。

この時の海外経験もあって、帰国後はヨーロッパ、とくにドイツの展示会には出展者として年に数回出張することになり、ドイツ語を専攻していたこともあって、1983年からドイツ支局に3年間支局長兼コレスポンデント(特派員)として駐在し、そのまま、ドイツから、まさかのアメリカに2度目の駐在(5年間)をすることになった。

このトータル8年間の海外生活で、一時帰国したのはわずかに1回、それも仕事と休暇を兼ねて1週間だったので、日本の鉄道の改札で切符切りの駅員がいなくなり、自動改札になっていたことや、電話でテレホンカードを使っていたことが、逆にカルチャーショックだった。

こんなことも、大きな節目ではあるが、はじめて異国の土を踏んだというのが大国・アメリカであったので、1975年5月30日は、忘れることのできない「あの日」ということになる。

このころ日本で流行っていた曲が太田裕美の「木綿のハンカチーフ」だった。異国の地でこれを聞くと、ホームシック(死語)になり、はたして、自分もニューヨークの都会の色に染まってしまったかどうかというと、決して染まることはなく、吉幾三とそれほど変わらない、相変わらずの田舎人(カントリー・パーソン)であるとの認識を新たにするのだ。