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★ベルリンの壁崩壊から今年30年。壁の前と後を見た。


ベルリンの壁」崩壊から今年の11月で満30年となる。Yahoo記事の「ファン限定」記事で記事の引越しができなかったので、「記録」用に改めて編集し掲載。

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東西を分断していた頃の1984年、ブランデンブルグ門の前にいた(写真)。

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ベルリンには、格別の思い入れがある。

ドイツをはじめて訪問したのは、1976年4月ことだった。 その年に3回ドイツを展示会のアテンドなどのため訪問した。ベルリンを訪れたのは翌年の1977年のことだった。

欧州最大の国際展示会(ベルリンショー:家電見本市)開催の8月だった。

地元ベルリン(当時は西ベルリン)のアルバイトの人の案内で、観光で東ドイツを訪問した。検問所では、新聞は検閲の対象となっており、持ち込めなかった。西側の情報を東側に持ち込むことは禁止されていたからである。

 検問を通る時のチェックも厳しかった。東ベルリン観光目的のバスとはいえ、警察官が車内に乗り込んできて、パスポートのチェック、照合を行っていた。バスのタイヤの裏側なども見ていたようだ。西ベルリンから東ベルリンに入ると、街の様相は一変した。貧民街といった印象だった。同じドイツでもその格差に驚愕を覚えた。

 バスは、街中を走り、休憩所でコーヒーを飲んで、小一時間で戻るという単純なものだった。この観光は、100%東ドイツのビジネスで収入源となっていた。通訳も東のドイツ人で、休憩所のコーヒーも一ヶ所独占で、一杯のコーヒーが高かった。

西側と同じ料金だったが、価値は、東では数倍はしていたと思われる。f:id:fpd:20190319145148j:plain 東西の壁の前で。

東西を分離した壁も見た。西側から見た壁は、落書き一色だったが、東側の壁は、真っ白で、落書き一つないのが印象に残った。

1983年10月からおよそ3年間、ドイツに駐在することになり、ベルリンには数回行くことになった。写真は1984年にベルリンの壁の前で撮ったものである。このときに、5年後に、この壁が崩壊するとは、夢にも思わなかった。隔世の感がある。

 1989年に、ベルリンの壁が崩壊する映像は、ニューヨークのTVで見た。

東ドイツ人が壁に昇って、ハンマーで壁を壊すシーンは、鮮明に覚えている。一つの時代が終わったことを感じた。その後、ソ連の崩壊など、米ソ対立の構図が無くなった。戦争は二大大国による冷たい戦争から、イラン・イラク戦争など局地戦争がクローズアップされてきた。

 ベルリンの壁がなくなって再びベルリンを訪れたのは、崩壊後8年の歳月を経ていた1997年のことだった。自由に東西ドイツを行き来することができていた。しかし、地元のもともと西ベルリンに住んでいた知人によると、旧西ベルリンの質は落ちたということだった。そこで、市内から郊外に引っ越したのだという。

雇用の問題にも影響があったようだ。旧西ベルリンでの職を求めて東の住人がやってきたが、コンピューターの操作、知識などで相当な開きがあったようだ。デパートなどでも、西側では、店員は客に対して、衣類など手で触って、試着して、確認してよかったら購入するというスタイルだが、東のデパートはちょっと違うようだ(笑)。

 店員は、客に品物を触らせない、ということで、店員の役目は、客が触らないかどうかをチェックしている、というのを聞いたことがある。

 東西ベルリンの融合で、こうした格差も尾を引いているようだ。

「ベルリン」は、ドイツのニューヨークといえるほど、ヨーロッパでは活気のある街。芸術家も多く、当時は“ゲイ”も多かったような印象です。なんでもありの都市だった。最後にドイツ(ベルリン)を訪問したのは1997年なので、20年以上が経つ。ドイツには友人も多く、またいつの日か、行って見たい国のひとつ。

 「必ず行く!」と決めれば、行けると信じつつ・・・笑。

 

 

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壁の絵は芸術的でもあった。