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<span itemprop="headline">★再びドロン。「アラン・ドロン ラストメッセージ/映画、人生…そして孤独」</span>




日本で
は1960年代から1970年代にかけて圧倒的な人気を誇ったフランスの大スター、アラン・ドロンの単独インタビューアラン・ドロン ラストメッセージ/映画 人生 そして孤独9月22日、NHK BSプレミアム放映された
 
インタビューの時点で82歳。11月8日には83歳になる老境のドロンが波乱万丈の映画人生を振り返る。最後の出演映画のクランクインが控えており、その映画出演を持って引退すると宣言しているアラン・ドロン
 
アラン・ドロン ラストメッセージ/映画 人生 そして孤独」では、生い立ち、映画俳優になったきっかけ、名監督や俳優との出会い、女性遍歴交友関係などが本人の口から語られていた。


            名匠ルネ・クレマン監督「太陽がいっぱい」でスターに。

映画出演に関しては、ルネ・クレマンルキノ・ヴィスコンティ、ロベール・アンリコ、ジョゼフ・ロージージャン=ピエール・メルヴィルなど巨匠恵まれたこと。


           「山猫」でバート・ランカスタークラウディア・カルディナーレと共演。

俳優では、ジャン・ギャバンと共演でき、その偉大な背中を見て30年、40年後を追いかけた、と語る。ルキノ・ヴォスコンティ監督の「山猫」(1963)では、バート・ランカスターと共演できたことも大きいと語った。


              「山猫」のクラウディア・カルディナーレ(右)。


            「若者のすべて」ではジャンヌ・モローと共演。

若者のすべて」(1960)で共演した俳優たちも現在生きているのは、クラウディ・カルディナーレくらいになった、「レッド・サン」(1971)で共演した三船敏郎も亡くなった、などと俳優仲間が故人となったことで寂しさに思いを巡らしているようだった。
 
ドロンは冒険者たち」(1967)がキャリアのピークであったと振り返り、自身の代表作として「サムライ」(1967)を挙げていた。



ドロンがフランスの記者に「私が死んだら何と書く?」と質問したところ、「サムライ(侍)が死んだ」と返ってきたことに感動したという。


サムライ」におけるジェフ(ドロン)はかならずソフト帽のへりに手をかけて、帽子の角度を調整する。

その描写は、あたかも決戦の場に赴く武士の死に支度のような純粋な儀式性に支えられている。
 
コメディアンは、「役を”演じる”」が、私は役柄を”生きる”を貫いたと語る。
 
信頼する友人が言った言葉「アランはすべてに才能があった。幸福になること以外では」に対しては、「ゾクッとした」といい、まさにその通りだと肯定していた。


 「リスボン特急」ではカトリーヌ・ドヌーブと共演。

           「仁義」では”ヒゲ”が似合っていた(共演はジャン・マリア・ボロンテ)。




犬が好きだったドロンは、これまでに飼った犬35匹の犬の墓の隣に自身の墓を埋葬して欲しいという。
 
伝説の俳優ともいわれるドロンを知らない世代も増えてきたことを思うと、時代の流れを感じる。
 


・・・
アラン・ドロンは、1935年11月8日パリ郊外のオー=ド=セーヌ県ソーで生まれ。4歳で両親が離婚、その後里子に出され、居心地の悪さと「自分は何者?」と自問していたという
 
親戚の家を飛び出4年間軍隊に入り、除隊後パリ市場で働きながら歓楽街のピガール広場で、な夜な、遊びほうけていたという。そんな時、女優ブリジッド・オベールに出会い、ブリジットから俳優を勧められたのだった
 
その後、映画にスカウトされて銀幕デビュー。

そして華麗な女性遍歴が始ま
ったのだった。
太陽がいっぱい」(1959)の出演の時には、女優としての地位を確立していたロミー・シュナイダーがいた。撮影現場に見学に来ていたロミーが、ワンカットだけ出演しているのはたまたまだった。
 
その後、ドロンと別れ落ち目となったロミー・シュナイダー「太陽が知っている」(1969年)の相手役に主張したのはドロンだった。この作品でロミー・シュナイダーの人気が再燃したのだった
 
「愛してくれる女性の瞳に一番美しく映るように…それが私の俳優としての原点ですアラン・ドロンだから
こそ決まるセリフだ
 
アラン・ドロン最後の作品としてパトリス・ルコント監督の「La 
maison ide(原題:空家)がクランクイン間近だという。共演はジュリエット・ビノシュ(写真)。来年の公開ということで期待したい。
 
  
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