昭和30年代には「和製プレスリー」と呼ばれ絶大な人気を獲得。2年前に肺がんを患い闘病していた。
1958年に歌手デビュー。音楽イベント「日劇ウエスタンカーニバル」で故山下敬二郎さん、ミッキー・カーチスと「ロカビリー三人男」として一大ブームを築き、作曲家としても成功した。同時に、幾多の苦難を克服し「生涯現役」を貫いた不屈の人生だったという。
まず病魔。1968年に肺結核で片肺を切除して以来不調に悩まされ、肺疾患が慢性化した。2014年の年末には原発性肺高血圧症に起因する肺炎で危篤状態になったが、奇跡的に持ち直した。翌2015年に肺がんが判明。体力面を考慮し、手術を回避。以降は呼吸補助器を携行し公の場にも積極的に出ていた。
創作面でも苦労。歌手として落ち目になり、結核による休業で“過去の人”になりかけたとき、医師から「肺はしばらく使えない」と通告され歌手を断念。作曲家として和洋折衷の曲作りを模索し、ソフトな演歌から流行歌まで何でもござれの多彩さを得た。その発露が小柳ルミ子の「わたしの城下町」(1971年)「瀬戸の花嫁」(1972年)。1973年には五木ひろしの「夜空」で日本レコード大賞を初受賞した。
1978年、門下生の畑中葉子とデュエットした「カナダからの手紙」は大人の恋を軽やかな旋律に乗せ大ヒット。平尾節の真骨頂となった。
目立ったヒットを出せなくなっても、テレビ朝日「やじうまワイド」のキャスターなどタレントとして活躍。近年はバラエティー番組にも進出し若者の認知度も上昇していた。
1958年に歌手デビュー。音楽イベント「日劇ウエスタンカーニバル」で故山下敬二郎さん、ミッキー・カーチスと「ロカビリー三人男」として一大ブームを築き、作曲家としても成功した。同時に、幾多の苦難を克服し「生涯現役」を貫いた不屈の人生だったという。
まず病魔。1968年に肺結核で片肺を切除して以来不調に悩まされ、肺疾患が慢性化した。2014年の年末には原発性肺高血圧症に起因する肺炎で危篤状態になったが、奇跡的に持ち直した。翌2015年に肺がんが判明。体力面を考慮し、手術を回避。以降は呼吸補助器を携行し公の場にも積極的に出ていた。
創作面でも苦労。歌手として落ち目になり、結核による休業で“過去の人”になりかけたとき、医師から「肺はしばらく使えない」と通告され歌手を断念。作曲家として和洋折衷の曲作りを模索し、ソフトな演歌から流行歌まで何でもござれの多彩さを得た。その発露が小柳ルミ子の「わたしの城下町」(1971年)「瀬戸の花嫁」(1972年)。1973年には五木ひろしの「夜空」で日本レコード大賞を初受賞した。
1978年、門下生の畑中葉子とデュエットした「カナダからの手紙」は大人の恋を軽やかな旋律に乗せ大ヒット。平尾節の真骨頂となった。
目立ったヒットを出せなくなっても、テレビ朝日「やじうまワイド」のキャスターなどタレントとして活躍。近年はバラエティー番組にも進出し若者の認知度も上昇していた。
歌番組の審査委員長などを務め、その物腰の柔らかさも印象的だった。
最後のテレビ出演となった5月放送のBS日テレ「歌謡プレミアム」では、顔がむくんでいたものの、布施明と「霧の摩周湖」を熱唱した。
この8月以降も仕事を入れており、2週間ほど前まで周囲に「どんどん(仕事を)やっていきたい」と意気込みを語っていた折の急死。関係者は「今回も乗り越えてくれると信じていたが…」と話した。
この8月以降も仕事を入れており、2週間ほど前まで周囲に「どんどん(仕事を)やっていきたい」と意気込みを語っていた折の急死。関係者は「今回も乗り越えてくれると信じていたが…」と話した。
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ロカビリー時代の熱狂は、日劇(有楽町)カーニバルの模様を、小学生のころテレビで放送されていたのを見たが、一大ブームだったようだ。
1970年代、ソフトな演歌から穏やかなポップス調まで様々な作風の曲を五木ひろしや小柳ルミ子、アグネス・チャン等に提供。作詞家の山口洋子とのコンビは、この時代を代表するゴールデン・コンビとして知られている。
1971年、五木ひろしに提供した「よこはま・たそがれ」、小柳ルミ子に提供した「わたしの城下町」がそれぞれ大ヒット。1972年、小柳ルミ子に提供した「瀬戸の花嫁」で第3回日本歌謡大賞受賞。1973年、五木ひろしに提供した「夜空」で第15回日本レコード大賞受賞。
昭和の偉大な作曲家に一人が亡くなり、昭和がまた遠くなった。
「カナダからの手紙」(1977年)
ご冥福を祈ります。
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