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「名作に進路を取れ!」…映画とその他諸々のブログです。

映画「気狂いピエロ」(1965)


 
ジャン=リュック・ゴダール監督の代表作の1本「気狂いピエロ」(1965)は、日本では1967年に公開されている。1970年代初頭のころ、「ウイークエンド」などとともに劇場で見ているはずだが、青色のペンキを塗りたくったベルモンドだけが印象にあった。
 
今回再見して、意外と、”まともな”映画であることがわかった(笑)。
破滅に向かって、逃避行する男女を描いているという点では、2,3年後のアメリカ映画「俺たちに明日はない」の”ボニーとクライド”を連想させる。
 

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「ピエロ」と呼ばれるフェルディナン(ジャン・ポール・ベルモンド)は、不幸な結婚をしていた。退屈な生活から逃げ出したい衝動に駆られていたフェルディナンは、ふと出会った昔の愛人であるマリアンヌ(アンナ・カリーナ)と一夜を過ごすが、翌朝見知らぬ男性の死体を見つけ、彼女と共に逃避行を始める。
 


アルジェリアギャングに追われながらもフェルディナンは充実した生活を過ごすが、そんな彼に嫌気がさしたマリアンヌは、ギャングと通じてフェルディナンを裏切る。
 
マリアンヌを銃殺したフェルディナンは顔に青いペンキを塗り、さらにはダイナマイトまで顔に巻きつけ、死ぬつもりで火を点ける。我に返ったフェルディナンは火を消そうとするが間に合わずに爆死する。カメラは地中海を映し、アルチュール・ランボーの詩「永遠」が朗読される。
 
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フランスでアラン・ドロンと人気を二分するも、日本ではドロンが圧倒的な人気だったが、ベルモンドも、この映画を見る限りは、その人気ぶりがわかる気がする。二枚目顔ではなくたれ目で、やや間が抜けたような雰囲気がある個性的な面構えだが・・・(笑)。
 
この映画でのアンナ・カリーナは魅力的だ。
ボーリングのシーンで、フェルディナン(ベルモンド)が、身体にぴったりの青のジーンズを穿いたマリアンヌ(カリーナ)に向かって、「どうして、そんなにピチピチのズボンを穿いているのか」というシーンがある。アンナ・カリーナにフィットして似合っていて、プロポーションの良さを引き立たせていた。全体的にアンナ・カリーナのナイス・バディのしなやかな躍動感が良かった。
 
この映画では、第1章、2章といった注釈文字があり、第8章の次に第7章が続いたりする。間に、5、6章などがあったかというと無かった気がする。「次章:絶望」などという言葉はあったが・・・。
 
さりげないシーンにゴダールのメッセージが込められているのか。
 
            「そちらの人はフランス語が話せない、アメリカ人の映画監督なの」
 
酒場のシーンか、全体が赤っぽいモノトーンのシーンで、壁にもたれた老紳士にフェルディナンがフランス語で話しかけると、横にいた女性が、「その人はフランス語が話せないアメリカ人で映画監督だ」という。
 
映画監督というので「映画とは何か?」という質問をぶつけると、「映画は戦場のようだ」、「愛だ」、「憎しみだ」、「行動だ」、「暴力だ」、「死だ」そして最後に「感動だ」と一言一言、赤い服の女性に通訳させるのだ。
 
オープンカーに、フェルディナンとマリアンヌが乗っている時に、フェルディナンが発した言葉に、マリアンヌが「いま誰に話したのか」というと、後ろを振り返り、「(映画を観ている)観客にだ」といったことばもある。マリアンヌが、カメラ目線でこちらに話しかけたりすることもある。普通はあり得ないことだが・・・。
 
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この映画は、「考えるな。感じろ。」という映画らしい。
唐突に人が死んでいるシーンが現われたりするので戸惑う。何の説明もなく死体が転がっているのだから。お金がないからと言って、給油所で給油して、店員を殴って逃亡したり・・・。ハチャメチャ。ただ全体の画面の色使いなどがカラフルで印象的だ。アンナ・カリーナが2度ほど歌って踊るシーンがあり、ミュージカルのようなシーンもある。
 
お金のない、やぶれかぶれの男と女の強盗行脚が続くが、ふたりにとっては素晴らしい旅であった。フェルディナンの顔は底抜けに明るく、飄々とおどけてさえしていた。ある海岸ではロビンソン・クルーソーのような自給自足の生活を送っていたが、深い充実感を味わうフェルディナンと違って、マリアンヌは嫌気がさして来た。徐々にすれ違いが起こっていくさまなどが描かれ、最後の驚きのシーンへとつながっていく。

この映画は、アンナ・カリーナがよかったとは書けるが、ここが良かった、あれはどうだなどと書きにくい映画ではある。
 
☆☆☆
 
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