近年は肺炎と腸閉塞で入退院を繰り返し、酸素吸入器をつけたまま高座に上がり続けた。噺家(はなしか)は高座で死ねたら本懐…。落語を愛し最後まで高座への執念をみせ、”生涯現役”だった。50年以上に及ぶ長寿番組「笑点」の顔でもあった。
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1936年(昭和11年)8月14日、横浜市生まれ。
1951年、中学3年の秋に五代目古今亭今輔に入門。
1961年、桂米丸門下となる(桂米坊)
1964年1月、桂歌丸と改名。高座では「歌がまるで歌えないから歌丸になった」と説明。1965年、日本テレビで「笑点」の前身番組「金曜寄席」がスタート。司会は立川談志。1966年5月「笑点」がスタート。大喜利メンバーとなる。1968年、真打昇進。
1979年、落語芸術協会理事に就任。1999年に副会長、2004年に会長(五代目)に就任。
2006年5月「笑点」五代目司会者に就任。
2007年、旭日小綬章受章。
“卒業”後、「落語をやる以外に何もない」と話していた通り、入院で体重が35キロになっても、酸素吸入の管をつけた満身創痍の身体で高座に上がり続けた。
「大喜利の歌丸で終わりたくない」との思いから、幕末期から明治期を生きた名人、三遊亭圓朝の長編ものに取り組み「これをやるのが自分の宿命だと思っている」と語っていた。
「大喜利の歌丸で終わりたくない」との思いから、幕末期から明治期を生きた名人、三遊亭圓朝の長編ものに取り組み「これをやるのが自分の宿命だと思っている」と語っていた。
”笑点”人気を長いあいだ盛り上げた一人だった。
ご冥福を祈ります。
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