セシル・B・デミル監督の「男性と女性」(原題:Male and Female, 1919)を見た。
タイトルが、ジャン・リュック・ゴダールの「男性・女性」(1966)と紛らわしいが、「と」と「・」の違いで区別される。
当ブログの「書庫」分類で最も古い年代が「1920年代~」だが、1919年というのは、これまで見た中で最も古い映画かも知れない。映画はサイレント。チャップリンの初期の作品のような印象だが、説明書きは長い。
■淀長さんの解説(口述筆記)はこちら:
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この映画、今見れば当たり前のようなシーンだが、100年近く前の第1次世界大戦直後のアメリカ女性の性風俗をもっとも大胆にエロティックに描いたとして、ハリウッド史上類のない物議をかもし、”デミル伝説”を生んだ風俗映画ということになっている。
「サンセット大通り」のグロリア・スワンソンが20歳の時に出演した映画で、入浴シーンやキスシーンがあるというのが、当時としては衝撃であったということだろう。比較はできないが、邦画の「同棲時代 -今日子と次郎-」(1973年、松竹)で由美かおるがフルヌードになったくらいの衝撃か(笑)。
時代の先端をいく女たち、いわゆる”フラッパー”の台頭を察知したデミルは、清純でも妖艶でもない新しいタイプの女優グロリア・スワンソンを起用して、「夫を換ゆる勿(なか)れ」「連理の枝」(ともに1919)をつくったが、これに続くのが「男性と女性」であった。
フラッパーというのは、羽をバタバタさせるの意味で、第一次大戦後、道徳に左右されない若い女性のことを指し、おてんば娘の意味で使われた。日本でも、1920年代に流行ったが、特に蔑称としての意味合いが強く、当初はバイクに乗ったり、夜遊びをする不良少女的ニュアンスがあり、後に自由奔放に生きる女性という意味でも使われ、現在は死語となっている。
メアリー(グロリア・スワンソン)(左)
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映画は、孤島に漂着した執事(トマス・ミーガン)が女主人(グロリア・スワンソン)たちをこき使うというシチュエーションにおいて、イギリスの貴族と使用人の主従関係の逆転を風刺的に描いた。
ストーリー:
2人はまだ愛し合っていたが、階級社会では決して結ばれることはないことを知っているクライトンはメイドと結婚して去っていく。
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「男性と女性」には(当時の基準で)刺激的なシーン、グロリア・スワンソンの入浴シーンがあり、バスタオルなどでうまく隠しながら描かれている。セックスを売り物にして客を呼んでいるという意味で、この頃のデミルの作品は後に批判にさらされることになり、それはデミルに対しての評価にも影響していくが「男性と女性」は決してそれだけの映画ではないという評価が定まっているようだ。
「男性と女性」では、環境が変われば、人間関係も変わることを見せている。
「男性と女性」では、全編に渡り、主役のクライトンが持っている冷静さを保持した作品となっている。人間関係を分析した冷静な視線が感じられる。
注目すべきは、字幕やセリフの重厚さ。
聖書や詩を引用した字幕や荘重なセリフは、「男性と女性」に重々しさを加えることに成功している。映画のラストで、メイドと結婚したクライトンは、アメリカの大地で幸せそうに農業を営んでいることが示される。「環境が変われば、人間関係も変わる」というのが「男性と女性」のテーマであったようだ。
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映画のセリフでは、「人には、人生を覆すような好機が訪れるものだ」というのが印象に残る。また、貴族の娘として生まれたお嬢様メアリーは、無人島でも、「食べ物につられて屈辱を味わうくらいなら餓死するわ」と語っていたが、豹などの外敵の恐怖の前には、プライドも威厳も押しつぶされる様子が描かれている。
漂流したボートが「運命は冷酷(な方向)に舵を取っていた」というセリフもいい。
このブログも、舵取りが、「名作」の方向に向かっているか、修正しつつ進まなくては・・・。
英語の字幕版(日本語なし)はYouTubeで見られるようだ↓。
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