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<span itemprop="headline">訃報:昭和の大横綱・大鵬、死去。72歳。</span>


 
横綱大鵬が亡くなったという報に接し、驚いた。
中学生の頃、横綱では、横綱柏戸と並んで”柏・鵬時代”を築き、土俵を盛り上げた。当時、大鵬と巨人はあまりにも強く、負けないので、「アンチ」になろうかと思ったほど強かった。
 
昭和30年代から40年代にかけ、高度経済成長時代の日本に夢と活力を与えた巨人大鵬卵焼き(※)横綱大鵬こと納谷幸喜さんが19日、72歳で亡くなった。その一生は、自ら至るところで揮毫(きごう)した、「忍」の一文字に尽きた。

角界入りするまでの幼少時代は「貧困への忍」だったという。
第二次世界大戦後、樺太からの引き揚げでは、乗った船が、納谷さんを北海道・稚内で降ろした後に国籍不明の船から攻撃を受けて沈没。命からがらたどり着いた北海道では、きょうだいは奉公で離散。
 
納谷さんも納豆売りや新聞配達をして家計を助けた。当時を「スケート靴やスキーが欲しかったから、自分で木の枝や鉄板で作った。入門するまでラーメンを食べたことがなかった」と振り返った。

全盛期は身長187センチ、体重は150キロに迫った。恵まれた体で、1961年に横綱に同時昇進した2歳上の柏戸(かしわど)を終生のライバルと決め、横綱としての直接対決では18勝9敗と圧倒した。
 
納谷さんは生前、「横綱の地位は孤独。柏戸さんと親しく話すようになったのも引退後」と明かした。妥協を許さない「勝負への忍」が、いまだ破られない32回の幕内優勝につながった。

大鵬には天性の素質がある」と言われることを嫌い、常に「素質があったのは柏戸さんの方。私は柏戸さんに追いつこうとひたすら努力しただけ。相撲をやっている人にしか分からない」と語った。その柏戸こと富樫剛さんが96年に58歳の若さで死去した際には、「通夜の席で”おい、何やっているんだ、起きろよ”と(遺体を)揺さぶった」という。

1971年に現役を引退し、部屋を起こした後は「病への忍」だった。77年2月に脳梗塞(こうそく)で倒れ、左半身が思うように動かない。だが弟子の素質を見抜く目と育成への熱意で、多くの関取を育てた。
 
「力士は伝統文化の担い手。自分の受けた薫陶を次の世代に継承するのも私の役目」と言い、相撲協会から身を引いた後も、現役横綱にアドバイスを送り続けた。
 
昭和の大横綱が亡くなり、さびしくなる。
現在横綱といえば、モンゴル出身など外国人力士が中心。
大鵬のような、憎らしいほど強かった日本人の横綱の登場を望まずにはいられない。
 
(※)「巨人、大鵬、玉子焼き」とは・・・。
  日本の高度経済成長真っただ中の1960年代、大鵬は61年に横綱昇進し63年と67年には全6場所で優勝するなど全盛期を迎えた。プロ野球では長嶋、王らを擁した巨人が61、63年に日本シリーズを制し、9年連続日本一のV9は65年に始まった。右肩上がりの経済の中で国民は時代を象徴するような強い存在に熱狂し、当時の子供が大好きなものとして「巨人、大鵬、玉子焼き」の言葉が生まれた。
 
ご冥福を祈ります。

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