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【きょうはテレサ・テンの命日】27年前(1995年5月8日)、死去。享年42歳。

きょうは、アジアの歌姫と言われ、日本でも大人気だったテレサ・テン鄧麗君=デン・リージュン〉の命日だ。テレサ・テンは、27年前の1995年5月8日に亡くなった。享年42歳というあまりにも短い生涯だった。

1984年から1986年にかけて「日本有線大賞」(東京)と「全日本有線放送大賞」(大阪)の東西有線大賞で史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞。文句なしに快挙を成し遂げている。(参考:Yahooニュース記事より一部抜粋)
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テレサ・テン:生まれは1953年1月29日、中国本土から台湾に渡ってきた、いわゆる “外省人” の両親のもと、5人兄弟の唯一の女の子として育った。父親は国民党の軍人だった。第二次世界大戦後に中国本土で行われた“国共内戦”(国民党と共産党による内戦)で蒋介石率いる国民党が敗れ、台湾に渡ってきた一派だ。

テレサは幼いころから歌が好きな子供だったという。10歳で中華ラジオ主催の歌唱コンクールで優勝して一躍注目を浴びると、12歳でレコード会社主催のコンクールでも優勝。

13歳で台湾テレビの専属歌手となり、14歳で正式にレコードデビュー。世間から “天才少女歌手” と騒がれた。16歳で主演映画が封切られ、17歳で初めて香港の舞台に立ち、18歳の時には東南アジアツアーを行なった。気がつけば、テレサはアジアのトップスターになっていた。

この人気に目をつけたのが、日本のレコード会社の日本ポリドール。同社の制作管理部長だった舟木稔氏は香港に渡ると(当時のテレサは香港を拠点に活動していた)、テレサと母親に面会し、日本での音楽活動を打診。

2人は興味を示すが、台湾にいる父親の許可がいるという。そこで舟木氏は台湾へ飛び、父親の説得に当たるが、生粋の軍人気質からか、全く受け付けない。そこから舟木氏は毎日、父親のもとへ日参し、説得を続けた。そして、とうとう10日目に父親の承諾を得た――。

テレサの日本のデビューは、1974年3月1日だった。芸能事務所は渡辺プロダクション、レコード会社は日本ポリドール。

デビュー曲は、作詞・山上路夫、作曲・筒美京平の「今夜かしら明日かしら」だ。当時、既に香港出身のアグネス・チャンがアイドル路線で人気を博しており、テレサも同じアイドル路線が取られた。しかし―― 全く売れなかった。

デビュー曲はナベプロの主導で行われた。大手芸能事務所だけに、音楽番組への出演もスター歌手とのセット売り(バーター)が可能で、顔を売る新人としては悪くない戦略だった。実年齢21歳を19歳と表記したのも、アイドルとして売り出すためだった。だが、その路線がつまずいたので、2曲目はイメージチェンジを図るため、日本ポリドールの主導になった。

ここで、ポリドールの制作チームが出した戦略が “演歌” だった。憂いのあるテレサの歌声には、アイドルポップスよりも、切ない演歌の方が似合う――。ディレクターは、作曲家の猪俣公章邸を訪ねた。そして、完成した楽曲が「空港」だった。作詞は前作と同じ山上路夫である。

若い女性の共感を呼んだテレサ・テンの歌だったが…


何も知らずに あなたは言ったわ
たまには一人の 旅もいいよと
雨の空港 デッキにたたずみ
手を振るあなた 見えなくなるわ

 

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「空港」は売れた。一説には、累計で70万枚も出たという。当時21歳のテレサの天才的とも言える情感を込めた歌い方が、その道ならぬ恋の別れをドラマチックに盛り上げたのである。決して歌い上げるタイプでなく、時にささやくような歌い方が、特に同年代の若い女性たちの共感を呼んだのだ。

しかし新曲のプロモーションで、全国のキャバレーを回る日本流の慣習はテレサを苦しめた。気がつけば、新曲を出すものの、次第に足が遠のき、プロモーションで来日する頻度が減っていった。

その矢先に、偽造パスポート事件が起きた。

時に、1979年2月―― 香港から来日したテレサは、インドネシア籍の偽造パスポートを使用したことで、東京入国管理局に収容され、一週間の取り調べを受ける。そして国外退去処分となった。

母国・台湾を取り巻く国際情勢の変化が背景にあった。1971年に中華人民共和国が従来の中華民国に代わって、国連の代表権を手に入れると、台湾の国民党政府はこれに抗議し、日本を含む多くの国と断交した。

その結果、台湾人の外国への渡航が年々厳しくなった。その極め付けが、事件の一ヶ月前に起きた、台湾とアメリカの断交だった。偽造パスポートは、台湾人がスムーズに入国審査を受けるための奥の手だった。芸能・音楽関係者は皆、使っていたという。(もちろん、許されることではないが)。

さて、人気絶頂のアジアの歌姫に、再び日本のレコード会社が動き始める。それは、日本ポリドールの社員たちによって立ち上げられた新会社の「トーラスレコード」だった。

日本でのカムバック曲は、作詞・荒木とよひさ、作曲・三木たかしの座組で進められた。デモテープを聴いて、テレサは「これは売れる」と微笑み、レコーディングに臨んだという。

カムバックの記者会見は、1984年2月にホテルニューオータニのクリスタルルームで行われた。しかし、集まった記者たちは、5年ぶりに日本で活動再開するテレサに対して、その意気込みや、新曲に関する質問を発することなく、1979年に彼女が起こしたパスポート偽造事件ばかりに質問を集中した。それに対して、テレサは薄っすらと涙を浮かべ、ただただ「申し訳ありませんでした」と謝罪を繰り返すしかなかった。

質問がひと段落したところで、新曲が披露される運びになった。プロデューサーの三坂氏がタイトルを発表する。

―― 新曲のタイトルは、「つぐない」です

その瞬間、記者たちから「おぉ!」と、どよめきが漏れたという。

 

窓に西陽が あたる部屋は
いつもあなたの 匂いがするわ
ひとり暮らせば 想い出すから
壁の傷も 残したまま おいてゆくわ

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翌日のスポーツ紙の見出しの多くは、“つぐない会見” だった。かくして、カムバックの新曲タイトルは、三坂氏の思惑通りに、世間に拡散されたのである。

好きな曲3曲(順不同):

(1)時の流れに身をまかせ

(2)空港

(3)別れの予感

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