「ブルー・ジャスミン」(アカデミー賞主演女優賞受賞)のケイト・ブランシェットと、「ドラゴン・タトゥーの女」(アカデミー賞主演女優賞ノミネート)のルーニー・マーラ。大女優と気鋭の若手女優による、いわゆるLGBTを扱った映画。
1950年代の米ニューヨーク。現代以上に、人々が「こうあるべき」という生き方が求められた時代を舞台に、運命的な出会いを果たしたふたりが、ひかれ合う自らの本心に従い、自分らしくあろうとする姿を映像美とともに描き出す。
映画では、ラブストーリーなどはとくに、出会いの場面=話の出だしというのは重要な要素であり、そこを見るだけでも作品の評価がある程度決まるといえるほどだ。「キャロル」の出だしの場面は、ラストシーンでガーンと効いてくる。
これまで、数多くの映画で、ラストシーンを最初に持ってきて、普通に映していて、そこから、それまでのいきさつを描いて、同じシーンに戻る、とその時に受ける印象が大きく変わるというもの。その最たるものが、デヴィッド・リーン監督の「逢引き」(1945)だった。同じシーンを見ても、二度目に見ると、まるで異なり、胸が詰まるのだ。ほかにも「ことの終わり」「白いカラス」などもそういった印象だった。
娘の親権を巡って離婚係争中の裕福な人妻キャロル(ケイト・ブランシェット)と写真家を目指してデパートでアルバイトをしている若いテレーズ(ル―二―・マーラ)がレストランで会話をしているシーンで始まる。そこに、テレーズの知り合いの男が割って入り、キャロルとテレーズは別れる。
キャロルは、別れ際に、テレーズの肩にそっと手を当て「それじゃあ」といってさりげなく別れるのだが、これも、そこまでのいきさつを見てからは、かなり重要な意味を持つ。
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映画を見るときに、常に気にしているのは、登場人物の人間関係と時代背景。
「これはXXだね、ジョン」といった具合だが、字幕には名前は出ない。
映画の中で、映画が上映されているシーンがあり、グロリア・スワンソンとウイリアム・ホールデンがでていた(「サンセット大通り」1950年公開)ので1950年代はじめということがわかる。アイゼンハワー大統領(1953年大統領就任)、GE(ゼネラル・エレクトリック)のカラーテレビ、キャノンのカメラなどが登場したりするので、その時代を表している。
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1952年のニューヨーク。高級デパートで働くテレーズ(ル―ニ―・マーラ)は、クリスマスでにぎわう売り場で美しい女性に目を奪われる。鮮やかな金髪と赤い唇の持ち主の名はキャロル(ケイト・ブランシェット)。
彼女もまたテレーズを見つめ返す。一瞬でキャロルに憧れを持ったテレーズは、販売した商品をきっかけに急速に距離を縮めていくが、キャロルは不幸な結婚と偽りの人生に身を置く、悲しみに包まれた女性だった・・・。
物語は、良き妻、良き母であることを求められて苦悩するキャロルの姿と、そんな彼女に近づこうとするテレーズの真摯な思いを映し出していく。
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ル―ニ―・マーラは「ドラゴン・タトゥーの女」のピアス女から一転して、素朴で、純粋な女性を演じている。一方のケイト・ブランシェットは、「ブルー・ジャスミン」で、病んだ女性を演じていたが、キャロルは、いかにもセレブのような立ち居振る舞いで、相変わらず存在感、オーラがすごい。
テレーズとキャロルはいったんは別れたが、テレーズが、キャロルに会いたくて会いに行ったときに、レストランの片隅にいたキャロルが、テレーズを目にしたときの、目の演技がすごい。キャロルが、テレーズを視界に入れた瞬間で映画は終わるのだが・・・。このラストシーンも余韻を残す。
離婚訴訟で、娘の親権を獲得するために、夫が探偵を使って、妻の「素行」「行動パターン」を調査するというのもすさまじい。それらの証拠をタテに、娘に合わせないという「禁止要項」を誓約書に盛り込むというのだ。
キャロルは、反対すると思いきや、事実を認めたうえで、それでも、娘に会えるというのは、一方の親として当然と、訴えていた。もし応じなければ、無益な長期の裁判に持ち込むというのだった。
「噂の二人」「アデル、ブルーは熱い色」など女性同士の同性愛を描いた作品はこれまでにもあったが、「キャロル」は、大女優と新進女優との演技を見る映画として、見ごたえがあった。とくに、ケイト・ブランシェットのすごさをあらためて感じさせる映画でもあった。
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