1970年代の新宿の風景(高層ビルの先駆けとなった新宿住友ビル↑は1974年の開業)
1970年代の初めには、映画館も、シネコンなどはもちろんなくて、名画座が、新宿東口では、いまの丸井の前身のビルに名画座(「男と女」などを見た)があったし、西口には「新宿ロイヤル」(「ル―という女」「コールガール」などを見た)、「新宿西口パレス」「名画座ミラノ」なんていう映画館もあった。
今では、新宿は東南口に「Wald(バルト)9」というシネマコンプレックスが4-5年前にできて、流れが大きく変わってしまった。歌舞伎町、紀伊国屋裏手の新宿ピカデリー、バルト9の3か所が主要な劇場地区であろう。
やはり一番にぎやかだったのは、歌舞伎町界隈。歌舞伎町のひろばの周りは、映画館が、数件取り囲んでいた。1969年にオープンした「新宿プラザ」があったが、2-3年前に40年の幕を閉じた。第1回のオープニング映画「ウエスタン」を見ている。ここでは、70ミリ映画の大作を多く見た。東京では「テアトル東京」(京橋)と並んで最大のスクリーンを誇っていた。このあたりでは、当時、今ブログ友のguchさんと、同じ劇場で、同じ日に映画を見ていたなどは、想像もしていなかったが・・・笑。
1974年のfpdの「黒革の手帖」によると、その年に見た主な劇場映画は以下のようなものである。名作から、ヤクザ映画まで幅広い(爆)。全ては書ききれないので、一部(80%)とした。(手帖」30数冊に及ぶ)
「街の灯」(2回目/銀座文化)
「男はつらいよ」「大事件だよ 全員集合」(2本立て/松竹東銀座)
「ジェレミー」(みゆき座)
「日本沈没」(千代田劇場)
(3本立て/池袋)
「仁義なき戦い・頂上作戦」(第四部)「女番長・タイマン勝負」
(五反田東映)
「招かれざる客」(東急名画座)
「エデンの東」(銀座東急)
「津軽じょんがら節」(アートシアター)
「四畳半襖の裏張り」「(秘)女郎責め地獄」(並木座)
「ダラスの暑い日」(新宿プラザ)
「総長賭博」「唐獅子牡丹」(並木座)
「激突!殺人拳」「仁義なき戦い・頂上作戦(2回目)」
(渋谷東映)
「股旅」(並木座)
「マッキントッシュの男」(銀座東急)
「華麗なる一族」(有楽座)
「シシリアン」(2回目/新宿ロイヤル)
(パール座)
「ライムライト」(有楽座)
「旅情」「めぐり逢い」(新宿)
「仁義なき戦い・代理戦争」「昭和残侠伝・血染めの唐獅子」(渋谷東映)
「戒厳令」(新宿京王)
「燃えよドラゴン(2回目)」
「街の灯」(3回目)「スケアクロウ」(2回目)
「イエローサブマリン」(新宿西口パレス)
「チャップリンの独裁者」(2回目)「モダンタイムス」(4回目)
「ダーティ・ハリー2」
「パピヨン」
「卑弥呼」
「マッシュ(M・A・S・H)」(2回目)「キャッチ22」(2回目
(ギンレイホール)
「追憶」(日比谷スカラ座)・・・昨日(3月17日、BS放送あり)
「ドラゴン危機一発」(ビレッジ)
「天国と地獄」(2回目/並木座)・・
・5回は劇場で見ている。
・5回は劇場で見ている。
「大悪党」「上意討ち」(並木座)
「殺人拳 2」「山口組外伝・九州侵攻作戦」
「ロミオとジュリエット」(2回目)
「おかしなニ人」「ボギー!俺も男だ」
(渋谷全線座)
「戦場にかける橋」
「メイム」(新宿ピカデリー)
「雪どけ」「招かれざる客」(2回目/後楽園シネマ)
「三銃士」(有楽座)
「吠えろドラゴン 起てジャガー」
「スティング」(渋谷パンテオン)
「おもいでの夏」(東急名画座)
「チャップリンの伯爵夫人」(日比谷みゆき座)
「波止場」「欲望という名の電車」
「エクソシスト」
「ドーベルマンギャング」「セブンチャンス」「片腕ドラゴン」(荏原オデオン)
「イルカの日」(有楽座)
「007カジノロワイヤル」(武蔵推理)
「Z」(7回目/池袋文芸坐)←すごいね(笑)。
「ドラゴン 怒りの鉄拳」(丸の内東宝)
「直撃!地獄拳」「三代目襲名」(五反田東映)
「フラバー」「海底二万哩」(渋谷全線座)
「夜をみつめて」(銀座文化)
「ザルドス」(新宿プラザ)
「ヘルハウス」(新宿プラザ)
「007サンダーボール作戦」
「新フラバー」(渋谷全線座)
「マイ・フェア・レディ」(渋谷全線座)
「華麗なるギャッツビー」(有楽座)
「スリーパー」(有楽町シネマ1)
「生きる」
「チャップリンの黄金狂時代」
「アメリカの夜」
「道」
「卍」「鍵」(池袋文芸坐)
「ジーザス・クライスト・スーパースター」(2回目/池袋文芸地下)
「山いぬ」(自由が丘)
「かもめのジョナサン」(日比谷みゆき座)
その他、20本+は、字数の関係と「その他」の理由で割愛。
いやあ、よく見ていた~。年度別では、これでも5番目くらいの本数だ。
蛇足:上のYouTube:
fpdが新宿界隈に出没しはじめたのは、1970年ごろからで、その当時は、出身の実家のある埼玉県・深谷から、大学に片道2時間半かけて通い始めた年だった。
最後に・・・。
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