映画「夕陽のギャングたち」(原題:Giù la testa、英題:Duck, You Sucker!, 1971)は、セルジオ・レオーネ監督による「マカロニ・ウェスタン」の代表作の一つ。イタリア/メキシコの合作。メキシコ革命とアイルランド独立運動を重ねた重厚な歴史劇で、革命に巻き込まれた山賊と元革命家の友情と悲劇を描いている。ロッド・スタイガー(「夜の大捜査線」)ジェームス・コバーン(「荒野の七人」)の2大俳優のバディ・ムービーでもある。
レオーネにとっては「ドル三部作」(「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」)に続く、政治的で重厚な作品となる。
冒頭で毛沢東の言葉が運用されている。「革命は晩餐会ではない。絵を描くことでもなければ、刺繍をすることでもない。革命はそんなに優雅で、静かで、丁重で、穏やかなものではない。革命は暴力であり、一つの階級が他の階級を打ち倒す暴力である」
この言葉の引用は、映画のテーマと強く結びついているようだ。
「夕陽のギャングたち」は、メキシコ革命(1910年代)を背景にした物語で、革命の理想と現実のギャップや、暴力の現実、裏切り、無力感が描かれている。
貧富の格差も。農家出身でボロボロ服で列車に乗り込んだフアン・ミランダ(ロッド・スタイガー)を見つめる上流階級の軽蔑のまなざしと態度を、下品な食べ方をして汚らしい口元のドアップの迫力で皮肉たっぷりに描いている。
エンニオ・モリコーネによる音楽も有名で、特に「ショーン、ショーン(Sean, Sean)」と繰り返すモチーフが耳から離れない。主人公の1人、ジョン(ジェームズ・コバーン)の過去の哀しみを際立たせている。
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<ストーリー>
舞台は1913年のメキシコ革命期。主人公の一人はフアン・ミランダ(ロッド・スタイガー)。貧しい山賊で、強盗と家族を養うために生きている。
もう一人はジョン・マロリー(ジェームズ・コバーン)。アイルランド出身の元IRA(アイルランド共和軍)の爆弾の専門家で、メキシコを旅している。
二人は偶然出会い、最初は反発し合うが、やがて「革命」に巻き込まれていく。最初は銀行を襲うだけのつもりだったフアンが、結果的に革命の英雄にされてしまい、次第に悲劇に巻き込まれていく。
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本作の背景にはメキシコ革命(1910年〜1920年頃)があり、ディアス政権による独裁と土地支配に対して、農民や労働者が立ち上がった社会的変革の時代。
この映画では、革命の理想と暴力、裏切り、民衆の犠牲という複雑な現実が描かれ、レオーネはこれを通じて「政治に利用される民衆」「理想の破綻」をテーマにしており、アイルランド独立運動の経験を持つジョンのフラッシュバックがその象徴となっている。
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軍隊の大量虐殺シーンや、銃撃戦、爆破シーンのすさまじさは、かのバイオレンス映画の傑作「ワイルドバンチ」を彷彿とさせる。
映画中盤~後半で描かれる政府軍による民衆への大量虐殺(死体の山、機関銃掃射)などの描写は、歴史的に完全な事実に基づいたものではないとしても、メキシコ革命で実際に起きた暴力と弾圧、そして民衆の犠牲を象徴的に描いたもののようだ。
ラストシーンで、若い女性と二人の男が登場するが、まるで「明日に向かって撃て!」のようでもある、三角関係。
これはジョンのフラッシュバックとして登場する若い女性(マリア・モンティ)と、ジョンともう一人の男との三角関係の回想であり、ジョンの過去を象徴的に語る重要な場面。
女性はジョンの恋人でありながら、彼の同志でもある若い男と関係を持つ。それを知ったジョンは、二人を仲間として裏切ったとみなして、失うことになるという過去のトラウマ。
これが、ジョンの「革命」「信頼」「友情」に対する冷めた見方の背景になっている。
ところで「モリコーネ 映画が恋した音楽家」(原題:Ennio、2022、イタリア)のなかでモリコーネが語っている。「唯一の後悔は、キューブリックの「時計じかけのオレンジ」のオファーに対して、別の映画(「夕陽のギャングたち」)があって断ってしまったことだ。」
この映画に関わっていたら、”時計仕掛けなんとか”など眼中にもなかったのかもしれない。
<主な出演者>
■ジェームズ・コバーン:ジョン・マロリー…爆破のプロ、元IRAの兵士。
■ロッド・スタイガー:フアン・ミランダ…山賊だが家族思い。革命に巻き込まれる。
■ロムロ・バルフエ:ドクター・ヴィラグラ…革命軍の幹部。
■若い女性:マリア・モンティ…ジョンの回想に出てくる女性。ジョンの過去の恋人。
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