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映画「三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜」(2020)を見る。ドキュメンタリー。

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三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜」(2020)を見る。1969年昭和44年)5月13日東京大学駒場キャンパス900番教室(現・講堂)で行われた、三島由紀夫と東大全共闘の討論会についてのドキュメンタリー。教室が「900番」であることから「900番教室」対決でもあった。

討論会は、当時、東京大学を占拠していた「東大全学共闘会議東大全共闘)」が、戦後日本を代表する作家で保守言論人として活動していた“時代の寵児三島由紀夫を招いて行われた。

会場のポスターには、バーベルや剣道などで身体を鍛えている三島をゴリラと揶揄するイラストが描かれていた。さらに、飼育料(参加費)は100円とカンパを募っていた。

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このポスターに対して、三島は、私がここに来たからカンパが集まったわけだから、半分は私の楯の会にもらえないのかと語ったときには会場から爆笑が起こった。

時は、学生運動の嵐が吹き荒れていた1969年5月13日三島由紀夫東京大学駒場キャンパス900番教室に立っていた。右と左、保守と革新———。政治的に真っ向から対立する両者は、1000人の聴衆を前に公開討論会で対峙したのだった。

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【時代背景】1960年代後半から学生運動が全世界的に起こっていた。

1968年5月に起きたフランス・パリで行われたゼネストゼネラル・ストライキ)を主体とした学生の主導する労働者、大衆の一斉蜂起と、それに伴う政府の政策転換を掲げた五月革命(五月危機)が起こった。

アメリカでも、1968年に学生による抗議行動と学生抗議者による学部長事務所の占拠があり、その模様は映画「いちご白書」(1970)で描かれている。

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日本では、1968年(昭和43年)頃から東大闘争全学共闘会議全共闘と呼ばれる運動形態が現れた。全共闘は、それまでの全学連のような特定の政治党派の影響が強い既存の学生自治会に拠る運動とは異なり、党派や学部を越えたものとして組織作られ、ノンセクト・ラジカルと呼ばれる党派に属さない学生が数多く運動に参加した。彼らは武装を辞さず、大学をバリケード封鎖することによって主張の貫徹を試みた。

その年の10月8日に全学連新宿駅の線路上をデモ、国電(現JR)が立ち往生。12日には東京大学が全学無期限ストに入り、年末の12月29日には東大と東京教育大(現筑波大)が、翌春(1969年)の入試中止を決定した。

f:id:fpd:20220415065748j:plain 東京教育大(現筑波大)のストの状況。

1969年1月18日、東大闘争支援の学生・市民らが御茶ノ水駅付近の道路をバリケード封鎖。翌19日、機動隊が東大安田講堂の封鎖を解除した。

4月28日には朝から都心部を中心に数機のヘリコプターが爆音を轟かせ低空飛行を行い、都心部の要所要所には完全武装の機動隊が配置され「戒厳令」状態に置かれた。

革共同中核派は、この日を「沖縄奪還闘争への全日本労働者階級人民の総決起の日」と宣言。のちに沖縄デーと呼ばれた(1972年に沖縄は返還)。「首都制圧・首相官邸占拠」という方針を掲げ、全学連は全国学ゼネストで闘うことを決定し、その突破口として法政大学が全学バリケードストに突入。そのような中、5月13日、三島と東大全学連の討論会が行われた。

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三島対1,000人の学生の討論会ということで、一触即発の争いになるかと思いきや、討論会はユーモアもあり、笑いにも包まれたこともあって、ヤジのなかには「三島をぶん殴る会があるっていうから来たんだよ!」という声まであった(笑)。

討論の最後に、三島が「全共闘と共通点はある」と語ったことから、全共闘側が共闘できるのではと誘ったが、三島は「熱情は理解した」という言葉を残して、やんわりと共闘を拒絶して会場を去った。

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三島由紀夫は、相手の学生を決して批判したり、攻撃することは一切なかった。質問に対して真摯に真剣に答えていたのが印象的だった。お互いに、リスペクトすら感じさせるものだった。

映画の冒頭で、当時の言葉、表現は時代を考慮してそのまま伝えるという紹介があった。沖縄デーに関連して、政府が沖縄奪還闘争のグループを「キチガイ」呼ばわりするのはおかしいと三島。キチガイは病院に行けばいい、と。「他者」というのは主体性の意思のある者をいい、相手が「縛られている状態」にあれば他者とは言えないという。

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三島は、民間人として、自衛隊を援護するような組織として「楯の会」を作り、自衛隊体験入隊ではありえないような軍事訓練を行った。楯の会関係者によると、実弾による訓練もあったという。

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討論会のおよそ1年半後の1970年11月25日三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊駐屯地の建物の屋上で、自決した。このニュースは、大学のキャンパスの校内放送で知り驚いたことを今でも覚えている。

1960年の「安保反対」運動が学生運動のルーツと思われるが、1960年代後半には「ベトナム戦争反対」(べ平連中心)運動とも呼応し、1970年にも第2次安保反対運動が巻き起こった。安保反対は、反米運動でもあった。

アメリカからの輸入の象徴的なものの一つである「コカ・コーラ」の不買運動もあった。表向きは、コーラが健康被害を及ぼすという(根拠のない)理由だと思うが、日比谷公園不買運動の決起集会デモもあった。

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平凡パンチ」のダンディな人物の投票で、三島由紀夫は、接戦だが三船敏郎(2位)、石原裕次郎(6位)らを抑えて1位となっているのも驚きだ。

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50年も前の三島由紀夫の言動を見ても、新鮮に感じるのは、「言葉の力」ということかもしれない。

 

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