昭和の最後の超大物MC(司会者)でマルチタレントの大橋巨泉が12日亡くなっていたことが、今朝の報道番組で明らかになった。芸能人仲間で構成される「昭和9年会」(1934年生まれの著名な芸能人)のメンバーの一人で、82歳だった。
先日、永六輔が亡くなったときに、同世代仲間として昭和のテレビ界を背負ってきた大橋巨泉のコメントがなかったので、もしかしたらという不安はあったが、やはりとうとうその日がやってきたという印象だ。(※妻が永六輔の死は伝えなかったとのこと)。
この10年間は闘病生活だったようだ。がんの手術を繰り返し、闘病中で、今月12日午後9時29分、千葉県内の病院で、急性呼吸不全ため死去した。
テレビで活躍していたころのがっしりとした体格のイメージはなく、体力の落ち込みが激しく、3月27日に入院し、いったん4月5日に退院、在宅介護に切りかえたが、容体が悪化し、再び4月11日に緊急入院していたという。6月27日には関係者が「容体はよくない。体力がもうない」と深刻な状況とし、5月下旬に集中治療室に入ったと説明していた。
2005年に胃がんの手術をし、13年には咽頭がん、14年にはリンパ節のがん、15年には肺がんとリンパ節のがん、今年2月には左鼻腔(びくう)内のがんと、がんと闘い続けてきた巨泉さんが、病魔との闘いを終えた。
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ジャズ評論家・放送作家からテレビ司会者に進出し、弁舌家のマルチタレントとして人気を得た。
「ゲバゲバ90分」
テレビでは「11PM」をはじめ、「クイズダービー」「巨泉x前武のゲバゲバ90分」「世界まるごとHOWマッチ」などの司会者で活躍。同時に、ビジネスマンとして「OKギフトショップ」をアメリカ、カナダなどに7店舗を開業。2001年には政界進出も果たした。
様々なキャッチコピー、意味不明なCMで爆発的な人気となった。
「野球は巨人、司会は巨泉」
・・・同じ”巨”にかけてMCへの絶対の自信をのぞかせた。
パイロット万年筆CM
「みじかびの、きゃぷりきとれば、すぎちょびれ、すぎかきすらの、はっぱふみふみ」
・・・パイロット万年筆のこのCMが登場した1960年代末ころには、「何を言っているのか、このおっさんは・・・?」だったが、この言葉の後に「わかるね!」と続いたが、わかるわけないじゃんと思ったが。これが大ヒットした。
ちゃんと5・7・5・7・7の短歌の形になっている。大橋巨泉は芸名自体が「俳号」であり、俳句や短歌を趣味にしており、巨泉の二大趣味と言われるもう一つが「ジャズ」だったのだ。
1960年代後半から1970年代初頭当時の芸能界は、クレージーキャッツの植木等、谷啓、ハナ肇、その付き人だった小松政夫たちのようにジャズメンのコメディアンがアドリブセッション風に「ハラホロヒレハレ」「ガチョ~ン」「ハンビレチョンビレ」…など意味不明のギャグを飛ばしていた時代だった。(ジャズ仲間内では流行っていたのかもしれない。)
巨泉がパイロット万年筆のCM撮影の時、用意された台本が面白くないと、アドリブで言ったのが大うけしてヒット商品となったという。
「ポケットに入れやすいように短くしたこの万年筆は、キャップをとって後ろにつければこうやって普通の長さになり、すぐにスラスラと手紙なども書ける」という意味のコマーシャルメッセージだった!面白みゼロ(笑)。これを好きなジャズと短歌のセンスでひねり出したのだという。
テレビの夜11時台に、これまでの深夜映画などと違った画期的な「大人の番組」が登場した。「11PM」だ。その「11PM」の最終回に寄せた、巨泉のメッセージ映像があった。
「11PM」最終回
「クイズダービー」
遊びを仕事にした、という先駆者だった。
ジャズ・音楽以外にもゴルフ、麻雀、競馬の専門家(「競馬エイト」での予想は、有名で、巨泉を目指して、競馬の道へ進んだという人もいたようだ)でもあった。
巨泉の訃報は、とうとう来たかとショックだったが、ご冥福を祈ります。
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