1960年代半ば、斜陽期に差し掛かっていた日活では、高橋英樹に続くスター候補として、渡哲也を1965(昭和40年)3月「あばれ騎士道」で主演デビューさせた。この作品で、エランドール賞新人賞を受賞。翌年の1966年にヤクザの世界を描いた歌がメインの歌謡映画が「東京流れ者」である。
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オープニングから”東京流れ者”の曲が流れる。
流れ者の歌をくちづさむ本堂哲也(通称、不死鳥の哲)(渡哲也)を、数名の男がとり囲んだ。
彼らは、哲也の属する倉田組が、やくざ稼業から不動産業にかわったのを根にもち、ことごとく倉田組に喧嘩をうろうとする大塚組のものたちだった。
哲也は倉田の無抵抗主義を守りぬいた。その様子を知った大塚組の親分は「三度目にはハリケーンのように暴れだすはずだ」と挑発に乗ってくると睨んでいた。
一方、哲也は、倉田に大塚組が「足を洗ったかどうか試すために喧嘩を仕掛けてきた」と伝えると、「よく我慢した」とねぎらう。哲也は、恋仲の歌手・千春(松原智恵子)と結婚して、やくざをやめる決心をしていたのだった。
倉田は経営が苦しく金融業の吉井商事からビルを担保に金を貸りていた。
哲也はそれを知ると単身、吉井商事の吉井社長に会いに行き、500万円の手形を月100万の5回払いの分割延期を申し込んだ。
これを大塚のスパイで、事務員の睦子から聞いた大塚は、部下を使い吉井に担保のビルの権利書一切を渡せと脅した。電話で権利書をとられ、吉井が殺されたことを知った哲也は、怒りに身をふるわせた。
大塚は、邪魔者の哲也を殺すため殺し屋の「まむしの辰」こと辰造(川地民夫)を雇った。だが辰造は哲也の敵ではなかった。その頃大塚は倉田に哲也とひきかえにビルの問題から手をひくともちかけた。陰でこれを聞いた哲也は「頼むから俺を怒らせないでくれ」と”東京無宿の哲”となって単身大阪に発つのだった・・・。
「この地獄を突き破らなければ、俺には明日はやってこないんだ」と言った哲也のセリフはいかにもといったセリフ。
哲也は死んだと知らされていた千春(松原智恵子)は、無理やり歌わされていたが、そこに哲也が現れる。
哲也のもとに駆け寄る千春だったが「流れ者には女はいらねえんだ」「女と一緒じゃ歩けねえんだ」と千春を残して去っていく後ろ姿の哲也。
のちのヤクザ映画の決定版である「仁義なき戦い」などと比べてしまうと、リアリティに欠ける。ヤクザの殴り合いも、”寸止め”なのか、手が相手にあたっていないのに音声だけはビシバシ・・・。
東映などでは、ポスト高倉健の映画スターとして渡哲也を売り出そうとしたが、渡は結局、石原裕次郎の石原プロモーションに留まり、映画というよりもテレビの世界で大活躍することになった。「仁義なき戦い」の広能昌三の役は最初は渡哲也にオファーされたという(この役は、菅原文太の一世一代の役となった)。
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