森繁久彌主演の”社長シリーズ”も定着し、初の海外(香港)ロケを敢行したシリーズ第14作「社長洋行記」(1962)を見た。この時代、昭和37年(1962年)当時は、日本の映画界も活気があり、映画は「総天然色・シネマスコープ」などと大きく映画ポスターに書かれていたが、それも当たり前になってきたので、”総天然色”の文字が小さくなってきたようだ。
「社長洋行記」には「続・社長洋行記」という続編があり、2作でストーリーが完結する。「社長洋行記」の最後に、森繁久彌が「マッカーサーの言葉ではないが、I Shall Return だ」と言うセリフがあり、一旦香港を離れるが、また戻るという意味だった。あらかじめ、正続2篇の香港舞台の映画作りだったようだ。
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サクランパスという貼り薬で知られる桜堂製薬は、このところ香港を中心とする東南アジアで敵会社・椿パスターに押されぎみだった。これは由々しき問題と本田社長(森繁久彌)は原因究明に乗り出した。
東海林(しょうじ)営業部長(加藤大介)の話では、海外販売は加藤清商事にすべてまかせているという。それなら加藤社長(東野英治郎)に直接談判すると言い出し、本田はマダム悦子(新珠三千代)のいる香港亭へ彼を招待した。
だが加藤社長は、自社の売上に占めるサクランパスの売上などは0.6%と僅かであり、海外での販売は、ローカルの販売会社4社に任せているという。しかも「たかがアンマ膏(こう)じゃないか」と頭から相手にしないのだった。
初めての洋行に有頂天の中山は、あやしい英語で人をケムにまき、はてはお手盛の送別会を準備する図々しさだった。こんな中山をさすがに本田社長ももてあましたが、そんな時、東海林の愛人あぐり(草笛光子)の義兄が、香港で商事会社にいることがわかり、中山のかわりに彼を随行員にした。
送別会の当日、余興などで「香港娘」を披露するなど大張り切りだった中山は、自分が行けなくなったことを知らされて、ションボリとうなだれてしまった。しかも、会社の女子社員などから、お土産用の費用としてお金まで預かっていたので、そのお金と、購入リストに加えて、日本のあちこちの神社のお守りを、東海林に託すのだった。
いよいよ香港出発となり、ジェット機にのり込んだ本田たちは、香港亭のマダム悦子にばったり会った。悦子も香港支店へ行くところだった。東海林は、外国は初めてで、自家製の弁当持参で、魔法瓶に日本酒を持って、さっそくたくわんなどを食べ始めたが、周りの乗客は迷惑顔。隣に座っていた悦子は、体よく南と席を変わってもらい、本田のとなりに席を移した。本田は、「もっと早く知り合っていれば良かった」などと浮気の虫がおこる。悦子は「今からでも遅くない」などと手を握ってきたので、握り返し、にやける本田だった。
香港で、街を歩いていた南は、大学の後輩・柳宗之に出会った。
柳は妹の秀敏と共に香港を案内してくれたが、南は彼女の美しさに心もそぞろだった。一方、悦子を訪ねて道をまよった本田は、今南と別れたばかりの秀敏に親切に案内され、そのしなやかな柳腰に見とれるばかり。
東海林までが、マーケットでみやげを買うのに言葉が通じず困っているところを、通りがかりの秀敏に助けられた。その夜、三人は同じ女性とも知らずめぐり会った香港美人の話でもちっきり。
ところが夜中に本田社長は蛇の食べ過ぎでのたうって苦しんだ。
明日から売り込みだというのに、肝心の社長は、日本にいる妻(久慈あさみ)から、電話で直ぐに戻ってくるように言われ、逃げ出すように香港を立ち去るのだった。
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1960年代始めの頃の香港の様子などが興味深かった。1962年当時は、海外への自由渡航も制限があったようだ。羽田空港で、見送りのために社員が総出で見送っていたが、三木のり平などは、思わず本田社長万歳などと奇声をあげていた。
本田社長(森繁)の娘・めぐみ(中真千子)が、前衛芸術家と結婚したいと言い出した時に、絶対反対だと言いはっていたが、娘・めぐみから「3ヶ月も交際して、実質結婚しているようなもの」と言われてショックを隠せなかった。あまりのショックで、居酒屋で、秘書に愚痴をこぼすシーンなど、森繁久彌の独壇場の名シーンだった。
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