「愛の讃歌」や「バラ色の人生」をはじめ数々の名曲で知られるエディット・ピアフの歌と愛に生きた47年間を描いた、ドキュメンタリータッチの映画で、ピアフを演じたマリオン・コティヤールは、20歳から晩年までのピアフを見事に演じて絶賛を浴び、アカデミー賞主演女優賞に輝いた。
アカデミー賞の演技部門ではシモーヌ・シニョレに続いて史上2人目、49年振りのフランス人女優の主演賞受賞者、そして、ソフィア・ローレンらに続いて史上5人目の外国語映画(英語以外の言語の映画)での受賞俳優となった。
売春宿で育ち、街角でスカウトされて歌手として一時代を築くも愛に恵まれなかったピアフの一生を、いくつかの象徴的なエピソードを交えながら描いている。
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1915年、パリ。
路上で歌う母に養われるエディット・ジョヴァンナ・ガションは、祖母が経営する娼館に預けられる。復員した父に引き取られ、大道芸をする父の手伝いをしながら人前で歌うことを覚えていったエディット(マリオン・コティヤール)は、1935年、20歳の時に人生の転機を迎える。パリ市内の名門クラブのオーナー、ルイ・ルプレ(ジェラール・ドパルデュー)は、「ダイヤモンドの原石を見つけた」としてエディットをスカウト、エディット・ピアフという名で歌手デビューを果たすのだった。
舞台は大成功し、ピアフは一躍時の人となるが、翌1936年、ルプレは何者かに殺害されてしまう。後ろ盾を失い、一時は容疑者扱いもされたピアフを救ったのは、著名な作曲家レイモン・アッソだった。
アッソから厳しい特訓を受けて復帰コンサートを開いたピアフは、みごとシャンソン界にカムバックする。歌手として栄華を極めたピアフは、1947年、ボクシングの世界チャンピオン、マルセル・セルダンと人生最大の恋に落ちる。
セルダンには妻子がいたが、ふたりは急速に惹かれ合い、ピアフの歌も円熟味を増してゆく。しかし1949年、セルダンの乗った飛行機が墜落。失意の中で、ピアフは代表作となる新曲「愛の讃歌」をステージで歌い、喝采を受ける。あまりにも有名な曲だが、映画では、バックに常に流れていた。
その後もピアフは名曲を歌い続ける一方で、酒やモルヒネ注射などのドラッグに溺れる破滅的な生活を送り、1963年、47歳の生涯を閉じるのだった。
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ニューヨーク公演の舞台には、大女優マレーネ・ディートリッヒが訪ねるシーンがあり、その後も親交があったという。ピアフに歌手としての才能を見出されたというシャルル・アズナブールやイヴ・モンタンといった歌手兼俳優の名前も登場し、興味深かった。オリンピア劇場には、「イブ・モンタンも駆けつけてきた」と耳打ちされたピアフは「モンタン?外国にいるはずよ」と返答するところなどの会話は面白い。
病に冒され何度も倒れるピアフだったが、周りからは療養を強く勧められる。
しかしピアフの返事は「歌わなくなったら、ピアフはやってられない」だった。
ピアフは身長が低く(142センチ)であったことから、芸名が「小さなスズメ」(La Môme Piaf )の愛称となった。ピアフを演じたマリオン・コティヤールは、もともと美形の女優だが、眉は剃り、細い眉を描き、髪はチリジリ頭で、全くピアフ本人に乗り移ったような演技を見せている。
エディット・ピアフ(Édith Piaf, 1915年12月19日 - 1963年10月11日、享年47歳)。
ピアフはフランスで最も偉大な歌手の一人として記憶され、尊敬されているという。フランスではいまだにピアフのレコードが売れ続けている。その生涯は悲劇的な私生活と一連の名声、そしてステージ上で轟くような力を備えた声と華奢で小さな姿がコントラストとして多くの人の記憶に残るようだ。
(写真:マリオン・コティヤール:上
と実物のエディット・ピアフ)
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