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「名作に進路を取れ!」…映画とその他諸々のブログです。

★(川越スカラ座)映画舞台あいさつ:大林亘彦監督(「野のなななのか」その②)&小江戸。

 
 
映画「野のなななのか」(2014)を昨日見たが、「時をかける少女」「転校生」などの大林宣彦監督が、初回上映終了後、舞台挨拶で登場した。
 
前日は、京都の映画館であいさつしたといい、翌日は、埼玉県・川越市にまで足を運んで、映画に対する想いを熱っぽく語っていた。
  
 
大手映画会社のシステムとは離れて独自に自主映画を製作してきたパイオニアでもある大林宣彦監督。

 
大林監督をまじかに見るのは二度目だった。
約20年前に「JVC(日本ビクター)主催の東京ビデオフェスティバル」に参加・取材したことがあった。このイベントは、アマチュアの中から、将来映像分野で活躍できるような才能を発掘するもので、当時流行っていたカメラ一体型ビデオ(カムコーダー)で、短編などを製作して評価するものだった。たしか大林監督はその審査委員長だった。
 
それはともかく、大林監督は、今回の映画「野のなななのか」の製作に当たっては、製作費の資金集め・捻出に自身で駆け回ったという。
 
あらゆる知り合いに対して、頭を下げて、映画資金集めで訴えたこととは・・・。
 
「(死んでから)葬式の香典は入らないから、生きているうちに香典をくれ」(笑)だった!
 
この映画は、サブタイトルに”星の降る里・芦別映画”とあるように芦別市の”町興し”の一環でもあるようだ。人口7万人から1万5,000人に減少した市に、記念として製作した。
 
今回は舞台挨拶といっても、「質疑応答」という形だった。
 
最初の質問者は、映画で何度も登場する「詩」(詩人・中原中也:1907年(明治40年)4月29日 - 1937年(昭和12年)10月22日))との出会いについてだった。監督は、幼少のころ中原中也の詩を読んで感銘を受けたという。映画では、中也の詩が重要なモチーフとなっている。中原のおじは、当時戦争に行けない体であり、「戦争に行けないのは非国民」といわれ苦しんで、30歳で亡くなったという。そういう時代だった。中原自身も30歳の生涯を閉じた。
 
二番目の質問者は女性で、「野のなななのか」を見るのは4度目という。質問はシンプルで「自身の映画で最も好きな映画は?」だった。監督は「子供が10人いたとして、この子が一番、二番とは言えないでしょう。すべての作品が好き」だった(笑)。
 
最後の質問は、映画のデジタル化についてだった。
監督は、自身はフイルム人間であると前置きをして、映画というのは、科学文明とともに進歩してきたという。科学文明はある意味兵器のようなもので、軍の命令で航空機用のカラーフィルムを作ったのが始まりで、いい面と悪い面があるという。
 
サイレント(無声映画)からトーキーに移ったときに、映画は終わったという時代もあった。フイルムではデジタルにできないこともある。一方で、デジタルで、フィルムのようなことができる。小学生でも映画が作れる。双方向メディアに変わってきたという。「きょうは、僕の映画を見て。次は君の映画を見よう」という時代だという。
 
デジタルになって、照明がいらなくなったという。
フイルムだと、黄昏時のシーンでは、ライトが必要だった。
スタッフの人数も、照明・カメラで15人必要だったのが、5人でできるという。
デジタル・レンズの中に照明が含まれているからだ。
 
大林組”の撮影現場には、マネージャーなしで、俳優が一人やってくるという。
テストなしの現場で、ほかのテレビなどのように台本を覚えて、相手のセリフの流れも覚えて、ということがないのだそうだ。現場中心で、そこにいる俳優などを元にないのに使ったりする。一般的に役者は、自分のパートの撮影が終わると帰ってしまうが、「常盤くん(常盤貴子)など、終わってもまだそこにいる」。
まるで、”ディレクターズ・チェア” だといって笑わせる。
 
監督が、観客の最前列にいる人を紹介しますといって、ある人を紹介した。
「昨日も京都の舞台あいさつに出席していた人です。この映画は23回目だということです」と。実は、映画の出資者の一人でもあるという。50万円以上出資すると、映画にクレジットとして名前が出るそうで、出たら困るというので出資額は「49万円」だったという。まさに49(なななのか)だった。
 
・・・
野のなななのか」は、すべての人がつながっている、がテーマだという大林監督。沖縄の人のセリフで「ほっとかないで」という言葉があったが、これは東日本大震災で被害を受けた人たちだけでなく、すべての日本に通じるという。
 
大林監督によると、政治、経済の世界は競争社会で、ナンバーワンを競っているが、映画、芸術といわれる分野は、違う人を理解しようとするものだという。
政治・経済の分野に芸術的な考えを取り入れるべきだと語っていた。これまでは「ノー・モア・ヒロシマナガサキ」だったが、これからは被害者意識ではなく「ピース・フロームナガサキ」という平和宣言で行きたいと長崎市長が述べていたという。
 
長崎市長だったか、映画祭に出席すると約束し、出席したという。
「約束を守ることが政治家の第一歩」を自身で示していたようだ。
(約束を守らない政治家が多い。)
  
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映画を見た後、バス停、二つ分くらいぶらぶらと歩いた。
なにしろ、まわりは”小江戸”とよばれる、昔風の建物や商いの店が並んでいるのだから。
 
 
 
 
 
 
 
 
これ「埼玉りそな銀行」の外観。
 
埼玉にも、観光名所のひとつとして「川越」があったか(笑)。
土曜日の昼過ぎだったので、外国人も結構多くにぎわっていた。
 
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