fpdの映画スクラップ貼

「名作に進路を取れ!」…映画とその他諸々のブログです。

映画「醉いどれ天使」(1948):三船敏郎の「黒澤映画」初登場作品。

 
黒澤明監督の代表作のひとつ醉いどれ天使」(1948年)を見た。
うっかり間違って覚えていた「酔いどれ天使」は誤記で「醉」の字が正しい。
 
闇市を支配する若いやくざ・松永(三船敏郎)と、貧乏な酔いどれ中年医者・真田(志村喬)とのぶつかり合いを通じて、戦後風俗を鮮やかに描き出したヒューマニズムに満ちた力作。
 
醉いどれ天使」は、三船にとってはデビュー3作目だったが、この映画の主役の一人として破滅的な生き方をするヤクザ役で登場し、その強烈な眼光と個性で三船はこの映画でスターとなったといわれている。
 
この映画で三船敏郎を初めて起用した黒澤明監督は「彼は表現がスピーディなんですよ。一を言うと十わかる。珍しいほど監督の意図に反応する。日本の俳優はおおむねスローだね。こいつを生かしていこうと思ったね、あの時は」と当時を振り返り語ったという。
 
・・・
戦後の焼け跡にあるゴミ捨て場と化して悪臭を放つ小さな沼、その対岸で反骨漢だが一途な貧乏医師・眞田(志村喬)は近所でも評判の飲んだくれ医者で口は悪かったが、心の優しい人物だった。
 
眞田は闇市をシマとするヤクザの松永(三船敏郎)の怪我の治療をしたことから、彼が結核であることを察知し注意を与える。松永は口うるさい眞田の首を絞めつけるが、松永の兄貴分である岡田(山本礼三郎)に虐待され、今は眞田に救われて彼の看護婦代わりをしている美代(中北千枝子)を見て去って行く。
 
眞田は松永を心配してダンスホールへ行って再度彼に忠告し、数日後、泥酔した松永がレントゲン写真を持って眞田を訪れるが、予想通り松永の病は重かった。
 
やがて岡田が刑務所から出所、周囲は彼の機嫌を伺うようになり、松永の女だった奈々江(木暮実千代)も岡田になびく。眞田は病魔に蝕まれた松永を医院に連れて帰る。
 
悪夢にうなされて眼を覚ました松永は、美代を連れ戻そうと医院に乗り込んだ岡田に、今日は引き取ってくれと頭を下げて頼み込む。
 
ヤクザの虚しさを悟った松永に、飲み屋の女ぎん(千石規子)は優しい誘いをかけるが、闇市の連中は打って変わって松永を無視するようになる。松永が奈々江の部屋へ行くと岡田がおり、アパートの廊下に流れたペンキの上で松永と岡田は死闘を繰り広げる。
 
雪解けのある日、故郷へ帰るというぎんの手には松永の遺骨があった。
沼をじっと眺めている眞田に、肺病を克服したセーラー服の少女(久我美子)が走ってきて礼を述べ、2人は微笑みながら肩を並べて歩き出す・・・。
 
・・・
三船の気性の激しい性格とそのギラギラした存在感が圧倒する。
松永(三船)が医者の眞田(志村)に手の怪我の治療を受けるときも、医者をまるきり信用していないという風ににらむ眼光が鋭く、一方の真田は、楊枝をくわえて、相手の顔を見ずに淡々と治療を進める。「どうした」と医者が聞くと「針に刺された」というのだが、メス(はさみ)で傷口から取り出したのは、弾丸だった。「これが針か?」とお互い険悪ムード。
 
「いつも明るい南新町マーケット」という看板のある戦後の闇市が舞台だが、周辺は汚れて不衛生な小さな沼ができていて、セミの死がいなどが浮かんでいる。松永が、麻酔もないのかというと、聞かないふりをして、メスを何本も手に突き刺すように立てる。
 
あまりにも強い痛みに苦しそうな顔をする松永は「医者は儲けることばかり考えやがって」と悪態をつく。眞田も「そうさ、結核患者を5人持ってりゃあ、左うちわだからな」と切り返すのだ。
 

 
松永は、眞田の元ライバル医師だった男に検査を受けたところ、結核だということがわかり、その医師の推薦もあって、レントゲン写真を持って来たのだが、松永の強がりも相当なもので、酒は止められているものの、酒浸りの生活に戻って、ついには寝込んでしまう。
 
眞田が、無鉄砲な松永の病を自分のことのように思って心配するのは、かつての自分が酒におぼれて無軌道だった頃に重なるからだった。
 
眞田の言葉の端はしに、黒澤明のメッセージが込められていたといえる。
 
「(お前の)性分というものは沼みてえなもんだな。肺ばかりきれいにしたって、ばい菌やゴミみたいな厄介なもの(=やくざ連中)と手を切らないかぎりだめだな」と。
 
レントゲン写真を見せようとしない松永に対して「くだらない負け惜しみをやめて、
持ってきたレントゲンと早く出せ。年寄りを焦らすもんじゃない」というのだが、松永の背広に丸めてあったレントゲンを見つけてしまうのだ。それは、あきらかに病の進行を示していた。
 
映画のタイトルは、「頼まれもしないのに、他人の体の心配をするんだから、天使のようなものだ」からきている。治療用のアルコールにお茶を混ぜて飲んでいる、決して他人(松永)に説教できる立場ではないのだが・・・。
 
盛り場、ダンスホールなどが登場する。
そこでは、”ブギの女王”といわれた笠木シズ子が黒澤のオリジナル曲という「ブキ」を歌っていた。貴重な映像資料かもしれない。
 
終戦直後の時代がにじみ出ていた。
「わかもと製品」の生活ビタミン「ワカララビン」といった大きな広告看板が何度も登場する。マーケットでは、「うみたて玉子 1ケ十八円」と出ていたが、玉子だけは値段が据え置きで変わらないようだ。ほかの物価は、数十年で、50倍~100倍に上がっているが。葬式代が、6,000円ちょっともかかってしまったという言葉もあった。当時の6,000円はかなり大金。
 
ギター(マンダリン)弾きも登場していた。
4年の刑期を終えて出獄した岡田というやくざの弾く曲は、”皆殺しの歌”と呼ばれてた(西部劇の同名曲とは無関係)。
 

黒澤明が、初めて三船敏郎を自身の映画で使った記念すべき映画で、この映画以降、「生きる」を除いて、三船を主演で映画を撮り続けたのだった。撮影にあたっては、黒澤天皇と揶揄されるほどの厳しさだったというが、三船の演技には、いちども批判めいたことはいわなかったのだという。演技には絶大の信頼をおいていたということのようだ。
 
三船あっての黒澤映画」というのは間違いないようだ。
 
☆☆☆☆
 
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
 「にほん映画村」に参加しています:
 ついでにクリック・ポン♪。