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<span itemprop="headline">映画「黒部の太陽」(1968)</span>


黒部の太陽」を含む5作品が解禁!(3月20日発売)”裕次郎「夢の箱-ドリームボックス」”
 


 
ついに念願だった大作「黒部の太陽」(1968)を見た。
3時間16分のオリジナル・バージョンで、デジタルリマスター版。
 
この映画の公開は、1968年2月17日(fpdの劇場デビューは翌1969年3月2日)
配給収入:約7.9億円(1968年度、日本映画興行1位)、観客動員数:約730万人
 
その後、40年間劇場公開はなく、

劇場では、今年1月26日から2月28日まで、東京の「東劇」で特別公開された。
これには行けなかった。残念。
 
現在、版権は石原プロモーションが所有しているが、生前の石原裕次郎自身が「こういった作品は映画館の大迫力の画面・音声で見て欲しい」と言い残したという理由から、長年ビデオソフト化されていなかった。
 
石原プロ50周年を記念してこのほど、「黒部の太陽」「栄光への5000キロ」などを含む石原裕次郎主演の5作品が「裕次郎 夢の箱~ドリームボックス~」として今月発売された。きっかけは、昨年、東日本大震災復興チャリティーとして全国の映画館で展開したノーカット版「黒部の太陽」上映会。当時、石原プロ社長の石原まき子が、PRで全国を回り「『どうしても、もう一度みたい』という声が多く寄せられた」と説明。
 
DVDが解禁になり、ツタヤでもこのほどレンタルが開始されたのを知り、見たのだった。ほかの作品も見る機会があるだろう。DVDボックス(23,100円)を購入するには、アルバイトでもしないと・・・(笑)。
 
冗談は別として、1960年代(実際には1971年まで)は、日本の映画界は「五社協定」が存在し、たとえば日活の所属俳優は、東宝の映画には出られないというような悪しき制約があった。
 
裕次郎は日活から独立して石原プロを起こし、東宝から独立していた三船敏郎三船プロと協力し、俳優予算も少ないことから、劇団民藝を主宰する宇野重吉の支援も仰いだところ、民芸が全面的に協力、宇野重吉は息子・寺尾聰や、同劇団の代表も務めた滝沢修などとともに出演している。
 

この映画では、「黒四ダム」(黒部川の第四発電所)の建設の主体会社、関西電力の社長役の滝沢修だが、その貫禄は他を圧倒する、鋭い眼光!(「白い巨塔」の医学界の重鎮役もそうだったが)。
 
この映画には、日本のそうそうたる映画界の重鎮、名優が出演している。三船敏郎石原裕次郎の2大俳優が親子の役(三船の娘と石原が結婚)で出演するほか、テレビドラマ「おはなはん」(1966年~1967年、平均視聴率は45.8%、最高視聴率は56.4%)で国民的女優となっていた樫山文枝、三船の妻役に高峰三枝子、そのほか、志村喬芦田伸介加藤武岡田英次佐野周二関口宏の実父)、辰巳柳太郎などである。
 
今、これほどの大作を作るのは東宝以外では不可能に思われる。
不可能に挑戦した男たちのダイナミックなドラマだった。黒部ダム完成の陰には多くの犠牲者があった。完成後、バス観光ツアーの映像があったが、そこには殉職者の名前が刻まれていた。感動的な映画で、日本映画に活気があった時代の最後の映画だったかもしれない。
 

 
ストーリー:
関西電力黒部川上流に第四発電所を建設するため、太田垣社長(滝沢修)総指揮のもとに社運をかけて黒四ダム工事に当たることになった。間組の国木田(加藤武)と熊谷組の下請会社の岩岡源三(辰巳柳太郎)は、ともに現場責任者の北川(三船敏郎)を訪れ、ダム工事の難しさを知らされた。
 
源三の息子剛(石原裕次郎)は、トンネル掘りのためにどんな犠牲も省りみない源三に反抗し、家を出て設計技師として図面をひいていた。国木田はそんな剛と、北川の長女由紀(樫山文枝)と見合いさせようと提案して、源三を驚かした。
 
昭和31年8月、世紀の大工事といわれた黒四工事は、大自然との闘いの火蓋を切った。9月に入って剛は偶然、由紀と会い、親しさを増していったが、彼女が父の北川の身を心配するのを見て、源三の様子を見に黒部に向った。
 
源三はめっきりと体が弱くなっていた。北川の黒四にかける熱意にほだされた剛は父に代ってトンネル掘りの指揮をとることになった。こうして工事が始って半年、犠牲者はすでに16人を数え、難工事であることが現場の人たちに不安を抱かせ始めた。翌年の4月、北川たちが恐れていた事態が起った。軟弱な花岡岩帯にぶつかったのだ。
 
5月に入ってすぐ、山崩れと大量の水がトンネルを襲った。この危機を切り抜けるため、色々な技術プランが検討されたが、工事は一向に進まなかった。そんな折りも折り、北川は次女の牧子(日色ともゑ)が白血病にかかって入院し、生命はあと一年と知らされたが、大仕事をかかえているので、娘のそばについているわけにはいかなかった。
 
現場は労務者が一人、二人と去っていく状態で、彼らの士気は上らなかった。
一方、太田垣はあらゆる手を尽して危機を乗り切るため莫大な金を投入、技術陣の科学的な処置と、北川や源三たちの努力が実を結び、その年の12月、ついに難所を突破。翌年11月、剛は由紀と結婚した。そして2月、北アルプスを抜いてトンネルが開通した。
 
その瞬間を躍り上って喜ぶ労務者たちの中で、北川は牧子の死を知らせる電報に接し、激しく慟哭した。昭和38年3月、黒四ダムは多数の犠牲を出して完成した。
 
その日はちょうど北川の停年退職の日であったが、北川や剛たちはダムの偉容に、無限の感動を覚えていた。
 
キャスト
黒部ダム建設にあたって工区を5つに分割し、それぞれに異なる建設会社が請け負った。すなわち、第1工区…間組黒部ダム、取水口、導水トンネル、大町トンネル(現・関電トンネル)、御前沢渓流取水工事。第2工区…鹿島建設(骨材製造工事)。第3工区…熊谷組(関電トンネル、黒部トンネル、導水路トンネル工事)。第4工区…佐藤工業(黒部トンネル、導水路トンネル、調圧水槽、トラムウェイ・ロープウェイ工事)。第5工区…大成建設(水圧鉄管路、インクライン、黒四発電所、変電所開閉所、放水路、上部軌道トラムウェイ・ロープウェイ工事)。これらの企業はすべて実名で登場した。黒部ダムは、日本を代表するダムの1つであり、富山県東部の黒部川上流に建設されたアーチ式コンクリートダム。
 
ダムのためのトンネルの貫通作業を山の両サイドから進行。その掘削距離、熊谷組が2,604.176キロ、間組が922.964キロ。最大の難関は、映画でもキーワードとなっていた「破砕帯(はさいたい)」の存在。これをいかに突破するかだった。
 
破砕帯は地殻が変位することによりある面に沿った岩盤が破砕されて形成されるものである。映画ではその幅は数十メートルに及んでいた。これを克服するための対応が喧々諤々と議論されていた。機械設備が高額に及ぶとの報告があったときに、「お金の問題は私に任せなさい。足りなければ何億でも出します」という関西電力・太田垣社長(滝沢修)の迫力。トンネル作業が成功した際に、お祝いの酒樽をヘルメットですくって、ふるまうシーンなど、スケールが違う。
 
工事に参画した労務者たちをねぎらうよう促された黒四建設事務所・北川次長(三船敏郎)だが、スピーチの直前に電報があり「クロヨン ノ カンセイ ヲ イノリツツ
マキコ シス」(黒四の完成を祈りつつ牧子(日色ともゑ)死す)と次女の死に直面していたが、「ありがとう。皆さんのおかげで完成した」と涙を流すのだったが、その涙の中に娘の死の無念があったとは、工事現場の人間は知らず、大きな歓声と拍手が鳴り響いた。定年退職した北川は、見物コースの記念となっているトンネルを歩いたが、そこには「これより破砕帯」「破砕帯おわり」と標識があった。
 
男たちの命を懸けた壮絶なドラマであると同時に、親子、家族の物語でもあった。
 

 
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