「月光仮面」
昨日、BS TBSで、「昭和青春グラフィティ」という番組があった。
第一弾は、「わが家にテレビがやってきた」だった。
fpdの家にテレビがやってきたのは小学生4年の時だった。
学校から、寄り道をせず、一目散に家に走って帰ってきた。「月光仮面」の放送から何年かのちだった。
テレビは、当時は、20万円くらいした。
サラリーマンの月収は、1万円くらいだったろう。
テレビは、床の間に置くような宝物だった(笑)。
ところで、テレビ番組と言えば、昭和30年代の前半くらいからモノクロ番組で、本格的にスタートしていたが、昭和33年に「月光仮面」が始まるや、番組は大変なブームとなった。
風呂敷を首に巻き、安いおもちゃのサングラスをかけて「月光仮面ごっこ」が一世を風靡したのは50年以上前のこと。国産テレビドラマの第一号「月光仮面」の登場は、小学生になりたての頃の、”三丁目の夕日”の世代にとっては、”月光仮面”は超スーパー・ヒーローだった。視聴率は、最大で70%だったという。
まだ、一般家庭には、それほどテレビはなかった。
本人も驚いたという。タイツの格好で、恥ずかしかったという思いとは裏腹に、世間では、子供たちのヒーロー、月光仮面のスタイルをマネをする子供が日本中に誕生した(笑)。 皇太子ご成婚もテレビへの関心を一挙に高めた。
人気となった。国産のアニメも「エイトマン」などが流行った。
TBSの番組だったので、他の番組は紹介されなかったが・・・。
そもそも、「月光仮面」の誕生は、アメリカのスーパーマンに負けないヒーローの番組を作るということだった。TBSでは資金がなく、当時広告代理店だった宣弘社というところが、低予算でつく
った。事務所は、予算がなく小林さんという社長の自宅・応接室などを使った。
った。事務所は、予算がなく小林さんという社長の自宅・応接室などを使った。
月光仮面の撮影でオートバイを運転していた大瀬が、カーブを曲がるところなどの撮影をたまたま見ていた人が、「下手だな」とつぶやいたところを、監督が聞き、「運転できるのか?」「できる」ということで、その人がスタントマンになったという。のちにその人は、プロデューサーになったという。
大瀬康一は、このあと「隠密剣士」(1962~)で人気をさらに不動にした。
現在の大瀬康一(73歳)も、かつては2枚目のヒーローだった(笑)。
テレビは、1964年の東京オリンピックを機にカラーへと向かった。TVの番組表は「カラー歌合戦」など、カラーを強調した。
カラーテレビがやってきたのは、1966年か。
「ひょっこりひょうたん島」をカラーで初めて見たときのショックは、いまだ忘れない。
いい時代だった。