われわれの世代には、川内康範といえば「月光仮面」「七色仮面」の作者として
知られていた。小学校に入るか入らないかの時代だった。
漫画本で月光仮面を見て、TVでは、まだ家にテレビがある世帯は少なかったので、
近所のお菓子屋に行って、10円くらいで「飴」を買って、そのまま「月光仮面」を見せて!
と店のおばさんに頼んで、近所の悪がき3-4人で、チャンネルを「月光仮面」に合わせて
もらって、見ていた時代だった。ずいぶんずうずうしい子どもだったのである。
ただ、その2-3年後には、我が家にもテレビがやってくることになり、その日は
小学校から(スーパーマンのように)飛んで帰った記憶がある。
その川内康範(かわうち・こうはん:やすのりでもいいという)が、後には作曲家
として多くの名曲を残している。
さきごろ、川内康範(1920年生まれ)が亡くなった。88歳だった。
北海道函館市に生まれる。
小学校卒業後、家具屋の店員から炭坑夫まで20数種類の職業を転々とし、独学で20代から
作家生活に。「愛は情死である」をテーマに、詩・小説・脚本・マンガ原作・作詞の各分野で
数百本に及ぶ作品を執筆、戦後の大衆文芸を代表する一人として多方面に活躍。
著名な作品としては、「月光仮面」、「七色仮面」、「愛の戦士レインボーマン」の原作、
作詞では、「骨まで愛して」(城達也)、「君こそわが命」(水原弘)、「誰よりも君を愛す」(和田弘とマヒナスターズ)、「おふくろさん」(森進一)などがある。
また「まんが日本昔ばなし」の監修者であり、あの冒頭の主題歌の作詞者でもある。
森進一が、「おふくろさん」の歌の前に、自身でせりふを加えたことから、作詞家の
川内康範さんの逆鱗に触れたのは有名。「あいさつもなしに」というわけだ。
川内さんは、大正生まれの気骨のある人。正義感の強い人。
森進一には、礼儀に欠けるとして、決して会おうとしなかった。
昨日の夕刊紙によると、川内康範は、生前、「おふくろさん」を別の大物歌手に
歌ってもらおうと、ある大物歌手に打診していたとのこと。
その歌手は、名前はふせていたが、紅白に10回以上出ており、森進一と比べても
遜色のない歌手という。ただ、その歌手の事務所では、「おふくろさん」は
森進一の歌だとして、今までは辞退していたとか。
今後、「おふくろさん」は誰によって、歌い継がれていくのか。
カラオケ等で、個人が歌う分には一向に構わないが、レコード、CDなどは、
著作権者の断りが必要という。その川内康範さんが亡くなったので、
どうなるか興味がある。
森進一にとっては「おふくろさん」は、代表曲の一つだった。
「おふくろさん」は当分歌えないという。気の毒といえば気の毒だが、
森進一が自身の生い立ち、母への想いから、言葉を付け加えたことに
端を発した騒動だったが、森進一に分が悪いことは、明瞭だ。
やはり、作詞家に相談すべきだったろう。
苦情を言われてから、アポ無しで、青森の自宅まで出かけて、
空手で帰ってくるということもTVで放送されていたが、森進一の株を
大いに下げてしまった。往年のハリもなくなり、やつれた印象だ。
森進一のファンで、「女のためいき」のデビュー以来、ほとんどの曲
が好きなだけに、残念な一件だった。
今度カラオケに行く機会があったら「おふくろさん」を歌おうと思う。
私も「おふくろさん」を1年前に亡くして、その”おふくろ”が
よく言っていた言葉を思い出す。
”いつまでもあると思うな親とカネ”
”孝行を したいときに親はなし”
ホント、そうだな・・・あまり孝行はしなかったのではないかと
反省する昨今です。
まあ、ヨーロッパ、アメリカ駐在中に、それぞれ招待したのが、唯一の
救いだったか(笑)。本当に喜んでくれたな、あの時は。
少しは、孝行したのか(爆)。